magaminの雑記ブログ

2016年04月



この本を読む限り、入江隆則という人物は日本保守論客の最高峰だろう。
「敗者の戦後」という本は、あの太平洋戦争の戦前戦後をナポレオン戦争と第一次大戦のドイツと比べようというもの。そして保守の立場から太平洋戦争を冷静に判断しようとしている。

この本は、視野の広さ、論理の切れ味、精神の謙虚さ、思想の意外性、どれをとってもすばらしい。私は個人的には左より、すなわちリベラルだけれども、リベラルはこのような尊敬できる保守とこそ議論しなくてはいけないと思う。

保守の基盤というのは結局エリートの矜持ということだと思う。それに対してリベラルの基盤というのは、全ての人間が救われるべきだという信念だ。それを考えると民主党とか民進党?とかというのは本当にダメ。労働組合を基盤としていて大企業の正社員優遇が明らかだ。大企業の正社員がエリート意識を持ってがんばるというのでは、これは政治的に保守だろう。そもそも戦後の革新政党なるものはエリート意識丸出しで論理的に破綻していた。民主党に比べて安倍政権は優秀だ。総力戦という言葉を使う。総力戦とか総動員体制というのはそもそも戦前の革新官僚の言葉だ。総力戦思想は、全ての人間が救われるべきだというリベラルの精神を完全に含んでいる。民進党は終わりだろう。存在成立のための論理の基盤がない。二大政党が成立するとなれば、総力戦を掲げる安部政権の右側ということになるだろう。

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日本のひきこもり人口は、自分の趣味の時のみ外出する準ひきこもりを含めると100万人とも言われている。私はこの人たちの気持ちが分からないでもない。実際私も20年ほど前、20代半ばのころ2年ほどひきこもり的な生活を送っていた。アパートを借りて一人暮らしをしていたので、完全にひきこもることは出来なかったが、月5万円ほどアルバイトをして残りの時間はずっと本を読んでいた。

何でそんなことをしていたのかと今から考えてみると、社会にでてフルに働くのが怖かったんだよね。なんだか自分の魂みたいなもの、最後の言葉みたいなものを奪われてしまうような気がして。いまひきこもっている人たちも、病気だとか明らかな理由がない限りはあの時の自分と同じなのではないかと思う。

あの時の私の予感、すなわち社会にでてフルに働くようになれば自分の最後の言葉が奪われてしまうという予感が全くの妄想であったのかというと、そうともいえないだろう。むしろ当時の私の予感はかなり真理をついていたと思う。

ラカンは、人間は去勢されなければ社会システムに参加することすら出来ない、と言う。
去勢などという言葉は言い過ぎだと思うけれども、まあだいたいラカンの言うようにこの社会システムは運用されている。去勢までは行かないだろうけれど、多くの人々は自分の能力に相応しい収入を得るために心を縛られて働いている。縛られていた心を開放する時間が遊びなわけだ。野球観戦、祭り、クラブ、パチンコ、ソーシャルゲーム、このような場では人間関係がシャッフルされて、心の開放感が得られるという仕組みだろう。
まあ、仕事と遊びを明確に分けることが成熟した大人のたしなみなのだろう。

ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。

ひきこもって苦しんでいる人間の方がもっとまじめに人生について考えそして死んでいくだろう。自分ガ何のために生まれてきたのかは分からないのだけれども、遊ぶために生まれてきたのではないことは分かる。
そもそも去勢されなければ参加できないその社会システムとは何なのか、そこを問わなければならない。

漫画の「カイジ」のなかに「鉄骨わたり」のエピソードがある。カイジは落ちたら死ぬ細くて長い鉄骨の橋をほとんどわたり終えようとしていた。もうすぐそこの扉がゴールだ。しかしゴールの上方を見上げると紳士淑女たちがニヤニヤしながらカイジを見下ろしている。違和感を覚えたカイジは、この扉はフェイクで本当のゴールは別にあるのではないかと考えた。その瞬間に見えたんだ、カイジのすぐ横にほとんど透明のガラスの階段が。

ガラスの階段、いったん気がつけばそれは明らかに見える。

この社会ステムなるものはのっぺりして巨大で、一見理解するための取っ掛かりが無いように見える。だがはたして本当にそうだろうか。いったん気がつけば明らかに見えるようになるガラスの階段のようなものが取り付けられてはいないのだろうか。



もう純文学なんて読む人は絶滅危惧種だろうけど、ミステリーはまだまだ現役。ミステリーのいいところはある程度の面白さが保障されているところだろう。殺人事件が起こって、名探偵が謎を解くというこのカタルシス。

ミステリーの特徴として、犯人が最後告白するんだよね。まあ、自分が何でこんな殺人を犯してしまったのかということを。

告白ってなんなのかと思う。

そもそも犯罪者が告白する必然性というものはない。例えば家業が泥棒なんていう一族があったとして、その一人が捕まったとしてその人は最後に告白などするだろうか。結局、告白などと言うものは登場人物と同じ世界に参加しているという前提があっての話でしょう。私はこの世界に参加するべきだったのだけれども、結局参加できなかった顛末みたいなのが告白なわけでしょう。

「化人幻戯」で登場人物の女性がこのようなことを言うのです。

「双眼鏡をのぞくということは、告白小説を読むことと同じようなことでありますわよね」

告白を聞くということは「のぞく」ということなのですね。名探偵が謎を暴く。犯人が告白する。そして読者がそれを「のぞく」。名探偵が暴く謎なんていうものはパズルみたいなもので、この謎解きパターンが一番シックリするでしょう程度のものだ。アーなるほどねと言うわけ。名探偵は知の扉への鍵を握っている。この答えが一番シックリするから、それが正解だなんていう必然性は本来ない。にもかかわらず名探偵は蓋然的に真理に到達して、犯人は告白して、名探偵の寄りかかる知のヒエラルキーは安泰だ。名探偵は警察と仲がよかったりとか、アメリカ返りだったりとか、ドイツ語がペラペラの東大生だったりとか、驚くほどの知のヒエラルキーへの寄りかかりっぷりだ。
医者のミステリーだったり弁護士のミステリーだったりいろいろあるとは思うのだけれど、眉目秀麗の主人公は医学だったり法律だったりに寄りかかっていないか? 眉目秀麗だとか医学とか法学とかは本当に確固とした科学として存在しているのか。狂人に対して自らの正当性を一点の曇りもなく主張できるのか。

ミステリーが救われているのは、この自らの根底のばかばかしさに気づいている可能性があるということ。だからまだ面白いものが存在するのだと思う。

バフーチンは「ドストエフスキーの詩学」のなかで、このように言う。
このモノローグ世界では、単一で必然的に唯一の意識と並んで、無数の経験的な人間の意識が存在する。真理の立場からすれば、個々人の意識などは存在しないも同然である。意識のうちで本質的なもの、真実なるものはすべて意識一般の単一のテキストに入り込み、個性を喪失してしまう。

うん、その通りだろう。
さらにバフーチンはこのように言う。
モノローグ世界が認める認識上の個別化現象の唯一の原理とは誤謬である。

誤謬とは何かというと、結局狂気ということだろう。思い出すのはフーコーの「狂気の歴史」だ。フーコーは狂気についの言説からこの世界を理解するための足がかりを得た。狂気とはこの世界が回収しようにも回収しきれなかった、なんていうか大げさに言うなら旧世界の痕跡みたいな、普通に言えばちょっとした違和感というか、そんなものだろう。

トータルで考えるとどういうことになるのか。

フーコーは現代においては誰もが歯車で、英雄なんていうものはありえないと言う、そんな実感のこもった言葉。たしかに近代以降の英雄的人物も結局記号みたいなものだとは思う。

何故そうなってしまったのか。
あの人は頭が良いからとてもかなわないなんて考えてしまうことはない? そんなことを考えて引け目を感じる必要は全くない。この世界には個性を英雄化するルートなんてない。結局頭がいいとか、顔が可愛いとかそんなものは、この世界においては単なる記号に過ぎない。逆に考えればオープンマインドで頑張っちゃえばいいという簡単な話。

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私がいかに馬鹿げた暇人でも、山城むつみ「ドストエフスキー」を通読することは出来なかった。文庫本で600ページあるこの本を最初の100ページと後パラパラと100ページ読んでこの書評を書く。

ドストエフスキーのすばらしさというのは誰もが一読すれば明らかに分かるレベルにある。その長編は登場人物同士の裸の魂のぶつかり合い、そしてその連続だ。これがあまりにも衝撃的。現代日本において裸の魂のぶつかり合いの言説なんていうものはほとんどない。誰もが何かに寄りかかって発言するというのが普通だと思う。

一つ例をだそう。

ある有名な予備校講師がこのような発言をした。
「高校で勉強を頑張ったヤツは、帝国大学や私立大学上位校にいく。Fラン大学に行ったヤツは勉強もせずに遊んでばかりでどうしようもない。親にお金を出してもらって大学まで行って遊ぶようなヤツは高校卒で働けばいい」
この言説はどうだろう。
まずいえるのはこの言説はどうしようもなくポジショントークだということ。そもそも現代の日本で高卒にまともな就職先なんてない。そしてこの講師にはFラン大学に行ってまじめに勉強するヤツなんているわけないという前提がある。結局いい大学に行っていい新卒カードをゲットすることが頭のいいヤツのやることだというわけ。そのためには予備校で勉強しましょうというポジショントーク。さらに言えば、この予備校教師は帝国大学を頂点とする大学教育ヒエラルキーに寄りかかり、寄りかかるものがない学生をただ攻撃しているだけだ。こんな有利なことはない。
現代日本の多くの言説はこの程度のもので、互いが何らかの知のヒエラルキーに寄りかかり同意したり排除したりしているだけだ。
このような言説体系をバフーチンはモノローグ世界と言った。
これに対してドストエフスキーの登場人物たちは、このような知のヒエラルキーに寄りかかって発言したりはしない。自らが掴み取った思想を互いにぶつけ合う。このような言説体系をバフーチンはポリフォニー世界と言った。

ここまでいいだろうか? 

山城むつみはその「ドストエフスキー」という本の序章でこのように言う。
言葉が無駄に多いので一部分私がかってに要約する。
アリョーシャの染み透る言葉はイワンの内的会話に入り込む。イワンは「殺したのは俺だ」という言葉と「殺したのは俺ではない」という言葉とのあいだに分裂しているが、アリョーシャによってイワンの言葉の分裂解消の可能性が存在するようになる。しかしイワンはアリョーシャの染み透る言葉に反発を感じずにはいられない。

この解説は、もうすでにちょっとおかしいのではないのか。アリョーシャの言説はすでに権威的な前提になっていないか。イワンとアリョーシャは全く対等のはずだ。そこがカラマーゾフの兄弟の面白いところなのに、山城むつみによるとアリョーシャにすでに知の優位性というバイアスが与えられていることになっている。
あろうことか山城むつみは続けてこのようなことを言う。

イワンの反発は精神分析治療における患者の「抵抗」を連想させる。

いやそんなこと誰も連想しないよ。アリョーシャは精神分析学みたいな知のヒエラルキーに寄りかかって、寄りかかるもののないイワンを批判したというのだろうか。そんなことはない。そんなドストエフスキーの解釈ではカラマーゾフの兄弟の面白さは分からないだろう。何でそんな呪われたような読み方をしてしまうのか。

さらに山城むつみはこういう。

バフチン自身はフロイト主義に批判的だったが、彼のドストエフスキー読解はフロイトの臨床理論と構造的に合致しているのである。

めちゃくちゃだ。
結局山城むつみなる人物は、ドストエフスキーのポリフォニー世界をこのモノローグ世界に回収しようとしているのだろう。この世界はあらゆるものを回収して大きくなってきた。だからドストエフスキーも簡単に回収できると考えたのだろう。
これは私の善意の考えであって、そうでなければ山城なる人物にはもう文章は書かないでと言いたい。そもそも本当にバフーチンを彼は読んだのか。



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バフーチンの「ドストエフスキーの詩学」



ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫) [ ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチン ]
ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫) [ ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチン ]







バフチン「ドストエフスキーの詩学」のなかで言う。

「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ(独白)原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した」
例えば、近代以降の小説は三人称客観というスタイルで書かれている。三人称客観とは、作者や読者の視点が小説の登場人物を絶えず俯瞰できるようなシステム。このような近代小説システムも強化されたモノローグ原理の一つだろう。

さらにバフチンはさらに。
「単一の意識が自己を充足させるというこの信念は、思想家達が個別に作り出したものではなく、近代の思想的創作活動の構造に深くくいこみ、その内的外的形式を規定している一つの特質なのである」

言っていることは、1970年代のミッシェル.フーコーが語っていたことと変わらない。そして驚くべきことは、この「ドストエフスキーの詩学」の初版は1929年だということ。

こんなことがあるのかと思って。

バフーチンはここまで近代とは何かという真理に迫りながら、
「ここでわれわれに関心があるのは、文学創作におけるモノローグ原理の現れ方である」
とドストエフスキー言及にもどっていく。

世界の真理をつかむのは、自己満足のためではなく、愛するドストエフスキーのためであるという。ここまで来るとバフーチンの「ドストエフスキーの詩学」という本は、恐ろしくも美しい愛の物語とも言えるようなものに昇華してくるだろう。

あらゆる近代文学は古びていく。ドストエフスキーを除いて。小説それ自体を読んで楽しいなんていうことがもうない。私が森鴎外や夏目漱石を読むのは、その小説を読んで大正という時代を覗きこめるからという不純な理由に過ぎない。


なぜあらゆる近代文学が古びていく中、ドストエフスキーのみが古びないのか。

これはとても大きな問題で、まず近代の小説思想とは何かということを知らなくてはいけない。そして近代の小説思想とは何かととうことは、近代とは何かと問うことだ。



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三光マーケティングは金の蔵や東方見聞録などの居酒屋をメインに展開しています。

株価931円
配当利回り 1.72%
PER 66.98倍
PBR 1.62倍
株主優待は100株で3000円分、200株で6000円分、500株で12000円分の6月12月年二回です。

優待利回りは抜群です。ただしここは東京チカラめしという焼牛丼なるもので盛大にこけて、その結果優待利回りが抜群になってしまっているわけです。

三光マーケティングは元祖壁の穴というパスタ店も展開していて、今日川崎溝口の元祖壁の穴に実際に行って、チーズタルトとプリンをテイクアウトしてきました。注意してもらいたいのは、壁の穴と元祖壁の穴とは違うということです。この辺は三光マーケティングらしく(と言っては株主としては申し訳ない気持ちもするのですが)、ちょときな臭い感じもしないではないです。
で、この元祖壁の穴ではワインと肉料理がメインで、あとパスタとテイクアウトの出来るデザートもあるというお店です。46歳のオヤジが仕事帰りに1人でワインと肉料理を食べてもしょうがないので、今日は妻と子供のためにチーズタルトとプリンをテイクアウトしてきました。私、哲学とか文学とかは得意なのですが、プリンとかチーズタルトとかは余り得意ではないです。妻にプリンを食べさせて意見を聞いてやろうかという、また三光マーケティングとんでもないことをやっていないかという実地調査みたいなものです。
妻が言うには、なめらかプリン税込み346円は上のクリームが余計だけどまあ値段相応だね、ということでした。チーズタルト税込み194円は、うんこれはけっこう割安だね、ということでした。

元祖壁の穴(そろそろ元祖って書くのがめんどくさくなってきた)はテイクアウトのデザートではやらかしてないらしいということが分かりました。

ニーチェを理解するためのキーワードみたいなものがあって、超人、永劫回帰、ニヒリズム、あと高山樗牛はニーチェを個人主義だと言っていた。そもそもこのキーワードたちは何かの論理で一つにつながるものなんだろうか。最近はニーチェの言葉みたいな本が出版されたりする。この手の本をどんな人が買っているのかは分からないのだけれど、現代に疲れた人々がニーチェの言葉の断片を読んで癒された気持ちになるということもあるのだろうか。

ここで私のニーチェに対する考えを書きたい。

「悦ばしき知識」の断章109に
「世界全体の性格は、永遠にカオスである。そこに必然がないからではなく、秩序が、分節が、形式が、美が、叡智がないからである」
とある。
世界があって、その世界を認識する私たち人間がいる。人間が行うこの世界に対する認識の正確さは何かによって無条件に保障されているのだろうか。人間のみをエコヒイキしてくれる絶対的な神がいない限りそんなことはありえない。私たち人間は世界を秩序化や分節化することによって、それぞれの時代にそれぞれの世界観を体感しているにすぎない。人間が抱く脆い世界観の向こう側に、岩盤としての世界があるとニーチェは言っているのだと思う。

これは別に難しい話でもなんでもない。坂口安吾の「文学のふるさと」にこのような話がある。
「晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家があるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば親子共倒れ状態になるばかりなので、むしろ育たないことが幸福であろうという考えで、生まれた子を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は、いったい、こんなことが本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、といい、芥川があまりにぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
さて、農民作家はこの動かしがたい事実を残して、芥川の書斎から立ち去ったのですが、この客が立ち去ると芥川は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。
ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを越えたものであります。子を殺す話がモラルを越えているという意味ではありません。とにかく一つの話があって、大地に根の下りた生活があって、芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。」

結局ニーチェと坂口安吾は同じことを言っているのではないか。世界の認識のその向こうには、リアルな世界のまさにその岩盤があるという。ニーチェが、ヨーロッパを代表するその天才が、自らの狂気と引き換えにその世界の岩盤に到達したということ。坂口安吾という日本でさえほとんど忘れ去られようとする作家があっさりと世界の岩盤に到達したということ。ニーチェと坂口安吾の違いと言うのはこのあたりにしかないのではないかと思う。


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ニーチェ全集読みました




























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