magaminの雑記ブログ

2016年02月



16世紀ヨーロッパのミクロコスモスの観念だって。
「類似」という観念で連鎖的にさまざまな世界をイメージしていくというものです。これは別に難しいことを言っているわけでもなんでもなく、一年に四季があるから人間の一生にも四季があるとか、自分に命があるのだから日本という国にも命があるとか、まあそんな考え方だと思います。古臭いように見えて、これはなかなか馬鹿に出来ない思考法です。西田幾多郎の「善の研究」もミクロコスモス的な考えを発展させたような感じでした。

16世紀のヨーロッパは古典復興の時代でもあります。失われた古代に解釈すべき巨大な空間が広がっているということなのでしょう。戦前の日本にもありましたよね、古典復興、ロマン主義。保田 與重郎。

京都学派と日本浪漫派。これは「近代の超克」座談会ということになります。

16世紀の中世末期ヨーロッパ的世界が戦前の文学界に「近代の超克」として現出したということは、あの近代の超克議論というのは反動だったということになりますよね。

日本浪漫派と京都学派は話のかみ合う可能性があったわけで、この辺はもっとよく考える余地があるように思います。


フーコーの文体って、ホイジンガのそれのように身体にまとわりつくような感じですごくいいですよね。

「社交界学」なんていうものがありえるのですよね。
社交界をうまく渡っていくためには、
「言い回しに繊細さを、考え方には子供っぽさをこめること」
「極端に軽蔑するにせよ賞賛するにせよ、何も考えないこと」
「そこで交わされる言葉は、攻撃するか擁護するかのどちらかである事を自覚すること」
社交界では自身と自身の言葉を適正な距離に保つことが品格を生むのです。

このことは現代日本の様々なコミュニティーにおいても同じことでしょう。自分の実体と自分の発言(パロール)の距離を一定に保つことで、自身の品格や威厳を維持しようとする人は多いです。まあ、わたしの空気を読んでということでしょう。

このような人を見るとかわいそうになってくる。貴族とか華族とか社交界とか上流国民とか、この日本ではもう存在しないんですよ。自分とパロールの距離を取り品格ある振りをしようとしても、周りの人も表面的にはフォローしてくれることもあるでしょうが、心の底では誰にも相手にされていないということが十分ありえる時代にになってきたと思います。

ではどうするか?

自分と自分の言葉を出来るだけ密着させる。自分の言葉は自分であるという自覚。自分の心の底を覗き込むことによって、逆説的に他者を発見するということ。品格を得ることで自分自身を失うか、世間なるものを拒否することによって自身と他者を獲得するか、私は答えは明らかだと思いますけど。
フーコーが狂気について語る理由はなんなのでしょうか。究極的な他者とは狂人であるという。狂人にも狂人なりの論理があるのでしょうから、自分と自分の言葉とを密着させることさえできれば、狂人の論理世界にさえ入ることも可能だとフーコーは言いたいのではないでしょうか。
品格や威厳だなんていっていては、隣人の体験すら体験することは出来ない。当たり前の話なのです。

近代とはなんなのでしょうか。

何でもそうなのですが、何故とか何とか直接問うてしまうと、その答えはどうしても生臭くなってしまいます。スマートに考えたいのなら「いかにして」と問う、すなわちそのものの起源に遡って考えた方がいいと思います。

日本近代初期における一つの現象として「言文一致運動」というのがあります。その流れで二葉亭が浮雲を書いたのは有名です。話し言葉と書き言葉を一致させることが近代になるための何らかのスイッチであるらしいということはなんとなく分かるわけです。

この「死産される日本語.日本人」という本は、このなんとなくというところを実にうまく説明しています。二葉亭以前の日本もっと遡れば本居宣長以前の日本には、漢文、和漢混交文、擬古文、候文、歌文、俗語文、そして地方には地方のお国言葉などのさまざまな日本語的言語体系が重層的に、そしてその境目もあいまいに存在していました。言語体系の境目があいまいなわけですから、例えば日本と朝鮮との境目もあいまいであったであろうと思われます。人々はこの重層的に存在する言語体系群の中をさまざまに移動しながら生活していました。
明治以降の「言文一致運動」というものは、この日本語的言語体系を関東の話し言葉に一本化することによって、他との境界が明確な「日本語」ひいては明確な「日本」を創るものだったと言うわけです。

うまく説明してあります。なるほどと、世の中にはすばらしい説明能力を持った人がいるのだなと感心しました。

酒井直樹という人はこの明確な「日本」というものがあまり好きではないようです。確かに日本の境界をはっきりさせてしまうと人種差別的な現象が境界内で現れてきます。境界があるということに寄りかかり、境界の外にいる人たちを見下すような「日本人」が現れたりします。こんな日本人は私も見苦しいと思います。

さらに境界の内側の均一化された日本人に参加しなくてはいけないという息苦しさみたいなものもあるでしょう。明治以降は基本的に日本人の均一化の歴史だったと思いますが、太平洋戦争後とくに日本人の均一化は進んで、頭のいい人と自分で思う人は何で他人と自分が同じなんだ?と考えたりもするでしょう。

私は、近代とはパンドラの箱だと思うのです。いやなものがたくさんで出てきたかもしれないですが、一つだけ希望がある。

境界を明確化された日本は、その存在の意味を自分の中に探さなくてはいけないという宿命を背負ったと思います。そんな国の中で生きる私たちは、私たちの存在の中に生きる意味を見つける自由がもちろん与えられていますよね。この自由を重荷に思う人もいるかもしれませんが、私はこんなすばらしい自由は他にないと思います。

箱を空けたら嫌なものがたくさん出てきたからといって、近代から回れ右して引き返してはダメだ。もう帰るところなんてない。勇気を持って個々の日本人がこの自由を突き詰めて考えるなら、人種差別や蔓延するルサンチマンも解決可能なのではないかと私は考えます。


【中古】死産される日本語・日本人 / 酒井直樹
【中古】死産される日本語・日本人 / 酒井直樹







時代は大正。主人公の名前は時任謙作、年齢は30歳くらいでしょうか。

この時任謙作という人物は志賀直哉の分身だと思いますが、大正時代の純文学の主人公にしてはかなり突き抜けた人物です。
ある日突然、謙作はその兄から衝撃的な告白をされるのです。おまえは父と母の子供ではなく、父の父すなわち祖父と母との子供なのだ、というものです。

私は読んでいて、
「ああ、ここから父親殺し的なエディプスコンプレックス的な話が展開するのかな」
なんて思いました。

ところがそうではない。謙作は衝撃の告白から一晩ぐっすり寝ると、心持がけっこうスッキリしてしまうのです。何か重大な遺伝病についての告白ならともかく、自分が祖父と母の子供であるという程度では自分が自分であることの同一性に変更はないのではないかと、謙作はあっさりと悟ってしまいます。

謙作は竹さんという人と知り合いになるのですが、この竹さんの嫁というのが「生来の淫婦」で、旦那の竹さんがいるときも男を連れ込むのです。嫁と男の事が終わるのを、竹さんは台所で洗い物をしながら待っているという噂。それを聞いたときの謙作の発言。

「少し変わってるな。それで竹さんが腹を立てなければ、よっぽどの聖人か、変態だな。一種の変態としか考えられない」
ただし彼にもそういう変態的な気持ちは想像できないことはなかった。

狭いところを敢えて突き抜けたみたいなすがすがしいものすら感じます。同じ時代の小説である夏目漱石の「心」では、「先生」は友人の好きだった女性を横から取っちゃって、友人はショックで自殺してしまいます。それを「先生」は悩んで、十何年後かに自身の自殺を予告する長文の手紙を残します。
私なんかは、この謙作と「先生」のコントラストってすごいなって思ってしまいます。

時任謙作の暗夜行路はまだまだ続きます。でもこれ暗夜じゃなくない? 時任謙作、かなり明るいところを歩いてない?
「暗夜行路」の最後の方なのですが、謙作の妻の直子が不倫をしてしまうのです。現代でも不倫というのは離婚の事由になります。さらに時代は大正ですから。さらに妻の相手がその従兄弟だというのですから、なおさらきつい。きついというか気持ち悪いですよね。
でも時任謙作は許しちゃうんだろうなーなんて予想できてしまいます。で、実際に許しちゃうんですけど。ただ妻とその従兄弟がやった時間を逆算して、自分の子供が本当に自分の子供であるかという検証はしています。またそこが時任謙作らしいところなのですが。

この志賀直哉という作家、賛否両論かなりあると思います。
でも私は好きです。何か突き抜けたものがありますよ。

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