magaminの雑記ブログ

2016年01月



池田信夫がブログで柄谷行人を馬鹿にしたようなことを言っていますが、柄谷行人は池田信夫を相手にしたりしないでしょう。
なぜなら池田信夫は柄谷行人に二周ほど遅れているから。二周も遅れたら相手にする気にならないと思いますよ。

二周遅れるとはどういうことか説明してみましょう。

例えば明治維新以降、日本は近代に入ったとします。日本近代初期において、社会の秩序というものはその社会の外側から与えられます。一般の人たちは近代というものがよく分かっていないので、近代にふさわしい社会的秩序を外側から教えていこうというわけです。いわゆる啓蒙思想ということになります。池田信夫の論理というのはこれです。かつてのテレビマンの悲しい性というべきなのでしょうか。まあ知識人が一般民衆を啓蒙していこうという態度です。このような知識人なるものは英雄史観をとりがちです。陸奥宗光みたいな人が戦前にいれば太平洋戦争は防げたとか、太平洋戦争はルーズベルトの陰謀だとか、そのようなことを語ってしまいます。
時代はめぐって、大正から昭和に入る頃になると、社会の秩序はその社会の中にこそあるという思想が現れてきます。社会の秩序はその中にあると考えるほうが、社会そのものを合理的に編成しやすいのです。太平洋戦争は日本にとって究極の戦争でした。戦争は、華族とか地主とか左翼知識人とか社会の秩序はそのそとから与えられると考える人々を全て押し流してしまいました。戦中において、日本は急速に自らを「意味というものは自分の中にあるもの」だというより合理的な社会に編成しなおされます。
戦後も反動のようなものはあったでしょうが、基本線は秩序とか意味とかというものはそのものの中にあるということであったと思います。
これを突き詰めて言えば、この世界にそれぞれの日本人が存在している意味というのはそれぞれの日本人の中にあるということです。そして国家は民族のそれぞれの自由意志なるものを誘導することによって莫大なエネルギーを得ているわけです。

この時点で池田信夫は一周遅れています。

自分の存在している意味が自分の中にあるという考え方は、すばらしいエネルギーになる反面、個人にかなりのストレスをかけます。同じ日本人でも自分と他人が別の意味の中で生きているということになると、どうしても個人に孤独のプレッシャーというものがかかってきます。現代日本において大量のうつ病患者が発生するのはここに原因があると思います。柄谷行人は「世界史の構造」や「帝国の構造」でこのような現代社会を超克しようとしているのだと思います。オスマン帝国や中華帝国のような緩やかな共同体をヒントに、ポスト現代の可能性を探っているのだと思います。
これは普通に考えて簡単なことではない。
失敗が約束されたようなチャレンジみたいなものです。

このチャレンジを嗤う池田信夫は、柄谷行人から二周遅れているというわけです。

戦うものの詩を戦わないものが嗤ってはいけない。



相場は本当によくないので、何か景気のいい話でもと思いまして。

私、さくらインターネットを買値286円で持っているのです。
100株なんですけど。
買った理由は優待のクオカード。500円年二回というのは悪くないと思って。あと、さくらインターネットの社長は高専出身です。私の19歳の息子も高専に通っていて、その点親近感がわいたというのもあります。

買値から何倍にもなっていますから(何倍といっても100株持っているだけなのですが)、そろそろ売ろうかと思うのですが、まあちょっとマテと。さくらインターネットはブロックチェーン関連ということであげているのですが、もちろん私、ブロックチェーンが何なのかなんてほとんど知りません。40歳を過ぎてくると、ブロックチェーンはおろかビデオの再生ボタンを押すのすらめんどくさくなってきます。よく分からない事には関わりあいたくないなんて思ってしまいます。

これはまずい。

さくらインターネットを持っていれば、日経にブロックチェーンの記事が出たら真剣に読もうかなんてバイアスが働きます。こういうテンションは大切にしていかないと。オヤジになると10万程度の実現利益より気持ちの盛り上がりのほうが大事だったりします。
たのむよ、ブロックチェーン。私を世界の向こうまで連れて行ってくれ。

あと私、さくらインターネットからまだ一度もクオカードを貰っていないのです。優待族として、これ一回は貰っておかないと、とは思います。



太平洋戦争って何で起こったのか不思議に思ったことはないでしょうか。第一次世界大戦の時のように、勝ちそうなほうに乗っておけばそれで十分だったのに。
よくある考えは、「当時の日本人は間違いを犯した。すなわちちょっと頭が足りなかった」というものです。しかしこの考えは違う。昭和初期に書かれたものは、今読んでも読むに耐えるものが多いです。彼らの頭がちょっと足りなかったなんて信じられない。
団塊ジュニアにとってのおじいさんとは、実際に太平洋戦争に行った人たちだと思いますが、彼らは頭が足りなかったでしょうか。事実は逆ではないでしょうか。彼らの人間としての重みのようなものから、現代の私達は世界にはどうにもならないことがあるということを悟るべきではないでしょうか。

社会の秩序はどのようにしてあるのか? ということを考えてみましょう。
私は昔トマス・アクイナスの神学大全というのを読んだことがあります。そこにあるのは美しい思想のカテドラル。ヨーロッパの中世において、秩序とははるか高みにある神から与えられたもうたものであり、その結果この世界は形式がみっしりと積み重なったものであるということなのでしょう。
近代においては、秩序の根源がもっと近いものになります。ヘーゲルにおいては市民社会の無秩序さは上は国家、下は家族によって制御されているとされました。この世界に秩序を与えるものが神から国家や家族に変換されています。この世界に意味を与えるのははるか遠くにある神ではなく、この世界に隣接する国家や家族なわけです。意味の根源は近くに引き寄せられました。マルクスは社会的下部構造が上部構造を決定する言いましたが、これも市民社会はその隣接する外部から秩序の根源が与えられているいうことなわけで、話の構造というのはヘーゲルと変わらないと思います。

日本も、大正まではこのような「秩序はこの世界に隣接する外部から与えられる」という近代国家だったとおもいます。ところが満州事変が起こり、日本はより合理的な国家を創る必要に迫られます。近代国家より合理的な国家とは何なのでしょうか。結果からいうと、今まで秩序というのは隣接する外部から与えられているという考えを、秩序というのは社会の内部から発生するという考えに転換するということです。

これは驚くべき転換なのです。

それまでの日本国家は形式的強制によって国民からそのエネルギーを吸い上げてきました。しかしこれからは国民の自由意志をコントロールすることによってより大きなエネルギーを調達しようというのです。例えば年金というものは戦中に制度化されました。これも老後のことは心配せず今を一生懸命戦ってくれという、国家による自由意志コントロールの一つの顕現だと思います。

秩序の根源が世界の外側にあるのではなく、世界の内側にあるというのが現代日本の真理です。これはきわめて重大なことで、現代日本においては生きる意味というのは自分の外側にあるのではなく、自分の内側にあるというとになります。倫理は自分の外にあるのではなく、自分の内にあるということです。このことは戦時中の日本人が勝ち取ったものであり、戦後の日本人がその記憶を抹消しようとしたとしても、もうすでに不可逆的なものなのです。

知識人という人たちがいました。戦後の知識人なる人たちは大なり小なりある種のピエロです。世界の外側から秩序の意味を大衆なるものに与えようというのですから。考え方が100年古いんだよね。生きる価値というのは誰かに教えてもらうものではなく、この世界に内在して実存するものなのです。



夏目漱石の作品群というのは普通、縦に読むと思うのです。三四郎、それから、門は三部作だとか、漱石は実験的な小説群をへて、道草、明暗という三人称客観の小説にいたったとか、縦に読むとはまあそんな意味です。ところが蓮實重彦は夏目漱石の小説群を横に読んでしまいます。主人公達はよく仰向けに寝るよねとか、雨とか池とかの水のイメージが多いよねとか、琴とかヴァイオリンとかの音色が聞こえるとそれは出会いの前兆だよねとか。

私なんてあらゆることを縦に考えるということに慣れてしまっているのでしょう。物事を水平に考えてしまうと、そこには歴史も時間もなくなってしまいますから。

よく考えると、漱石の作品群の主人公達は進歩とかないですよね。主人公達の職業は学生か公務員かニートです。ほとんど仕事なんかしていないし、庶民的な人との接点なんてものもありません。世間の中で宙吊りになっているような。そして夏目漱石の小説というのは、
「いつ賽がこぼれ落ちるかという宙吊りの状態に耐える言葉たちが綴りあげる、サスペンス豊かな物語なのだ」
ともいえるでしょう。
残酷な言い方をすると、ニートって最後どうなるのかな? みたいな事だと思います。

水平世界には気楽さ、恐ろしさみたいなものがあると思います。例えば水戸黄門が印籠を出すと悪者が平伏するわけです。お約束の気楽さ。しかしこの気楽さが一生続くのかと思うと、恐ろしいような気持ちにならないでしょうか。主人公が琴の調べを聞くと誰かと出会ったり、雨が降ると主人公は女性とどこかに閉じ込められたりとか、漱石の主人公達はお約束の世界にやんわりと閉じ込められています。お約束の世界に暮らしているがゆえに、たとえば「門」の宗助は友達の妻を奪ったがゆえにいじけて生活しなくてはいけないし、「こころ」の先生は男女の三角関係で友達が自殺したからといって、十何年後かに自分も自殺を予告する長い手紙を書いたりとかするのでしょう。

蓮實重彦の夏目漱石論は、漱石的世界を危うい水平世界だと喝破する事で一つの古典になったのだと思います。ただこの本を読むと眠くなります。現代人にとって水平世界というのは眠くなる世界ですから。そういえば漱石の主人公達もよく仰向けに寝てますよね。


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