magaminの雑記ブログ

2015年11月

坂口安吾の言う「ふるさと」というのは、一般的なふるさとというのとは違います。懐かしいとか愛しているとかそういうもののもっと向こう側にある、グロテスクで巨大な何ものかです。
分かりやすい例でいうと、3.11のあの津波なんて坂口安吾的なふるさとだと思います。あの地震は金曜の3時ごろでしたよね。仕事から帰宅するのに電車が止まっちゃて私も歩いて帰りました。帰る途中、電気屋があってテレビで津波の様子を放送していました。水田地帯をどこまでも津波が遡っていくのです。どこまでも、どこまでも。サラリーマン風の人たちが何人か黙ってその映像を見ています。何分も立ち止まって、じっと見ているのです。彼らは世界の根源から、なんだか突き放されるような、そんな感覚を持ったのだと思います。

その突き放すところの者、それが坂口安吾のいう「ふるさと」です。

坂口安吾が「ふるさと」という言葉を語りだすのは、昭和17年発表の「文学のふるさと」あたりからだと思います。しかし昭和23年発表の「死と影」で、坂口安吾は昭和12年ぐらいの時の自伝的なものを書いていています。その中で三平という、まあほとんどホームレスみたいな人間と坂口安吾は友達になるのです。三平は言うのです。

「センセイ、いっしょに旅に出ようよ。村々の木賃宿に泊まるんだ。物をもつという根性がオレは嫌いなんだ。旅に出るとオレの言うことがわかるよ。センセイはまだとらわれているんだ。オレみたいな才能のないやつが何を分かったってダメなんだ。センセイに分かってもらって、そしてそれを書いてもらいたいんだ。旅にでれば必ず分かる、人間のふるさとがね。オヤジもオフクロもウソなんだ。そんなケチなもんじゃないんだ。人間にはふるさとがあるんだ。そしてセンセイもそれがきっと見える」

この三平という人物は実在したのだろうか。
私は実在したと思う。

三平なる人物の言う「ふるさと」とはオヤジもオフクロもウソくさく思えるほどのリアルなものなのです。三平の言葉と共に坂口安吾も転換したし、私も三平の言うリアルってあると思うのです。


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20年ぐらい前か。職場に宮ちゃんというオジサンがいた。宮ちゃんは50歳ぐらい。小柄で丸坊主で、いつもニコニコしていた。少し話せば、ああこいつ頭が少し足りないんだなと分かる程度にスローな人だった。

引き取り先のエレベーターに乗っているとき、宮ちゃんが暴れるんだよね。意味もなくジャンプしたりして。
「宮ちゃん、エレベーターの中では静かにしてください、ってここに書いてあるよ」
と私が言うと、宮ちゃんは、
「オレ、字が読めないんだ」

悪びれる様子もなく、あっさりとしたものです。ちょっとしたカルチャーショック。わたしの人生の中で、字が読めないなんていう人と接した事がなかったから。
付き合っていく中で、宮ちゃんの事もだんだん分かってきた。宮ちゃんの両親はもういない。宮ちゃんは妹と一緒に暮らしている。宮ちゃん、給料は妹に全部渡していて、その中からいくらか小遣いを貰っているらしい。

宮ちゃんがある時語るには、
「オレ、結婚してた事があるんだよ」
すごく得意そう。
「すごいじゃん、宮ちゃん。それで奥さんはどうしちゃったの?」
「足の悪いヤツでさ、妹が使えないって言うんで、追い出してやった」
えっ、なんなのそれ。
「子供とかは出来なかったの?」
「子供が出来ないように、オレ、パイプカットしたんだよね。妹がそうしろって言うから」
宮ちゃんは相変わらす得意げに喋る。どうだオレ、パイプカットという言葉を知っているんだぞとアピールしてるみたいな。
私は悲しくなっちゃってもう
「へーそうなんだ」
としか言えなかった。

獲得形質は遺伝しないというのが、生物学の大前提だ。あなたが一生懸命勉強して東大に行ったとしても、その努力はあなたの子供の知能には何の影響もない。宮ちゃんの子供だってバカだとは限らないよ。でもそんなことを言ったってどうしようもないんだよね。宮ちゃんはもう50歳で、私の目の前で得意げにニコニコ笑っているのだから。私から見れば宮ちゃんの世界はゆがんでいる。私にはどうすることも出来ない。そして私の世界だって、他人から見ればゆがんでいるかもしれない。

江戸時代の武士なるものはどのようなものだったかなんていうのは正直、時代劇か時代小説みたいなものから私たちはイメージを得ていると思うのです。そんなものが頼りになるのか、みたいな気持ちは、日本人なら誰にでもあると思います。
具体的な武士のヒエラルキーを明らかにした本書は、日本とは何かという問題の一つのピースを埋めるものだと思います。

近世大名家臣団には大まかに3階層に分かれていて、上から、侍、徒士(かち)、足軽、となります。侍というのはいざという時に馬に乗り、若等をを引き連れて参戦するもののことで、徒士というのは独り身で参戦するもののことで、足軽とは鉄砲隊などに参加する最前兵のことです。足軽層は城下近郊の村から一身限りで供給されていて、武士のイメージからは外れるものがあります。明治維新以降、士族と認定されたのは、実際徒士以上です。そして徒士と侍にも待遇上の厳格な格差があったりしました。

この本は様々な文書を駆使して、近代武士の内情というのはあからさまにしています。今までぼんやりとした武士概念がクリアになります。
ですから、自分の歴史観に合わせて、歴史を解釈したい誘惑に駆られます。

一つやってみましょうか。
江戸時代、武士が道ですれ違ったりすると、その階層の差によって礼の様式が変わってきます。足軽は楽なものです。袴をはいた人間が前から歩いてくれば、何も考えず土下座すればいいのですから。侍も楽です。すれ違って土下座しなかった人間を事後的にそれが誰か判断すればいいのですから。
問題は徒士。
前から歩いてきた人間の階層を瞬時に判断して、自らの対応を決めなくてはいけない。同輩に土下座したら恥じだし、侍に土下座しなければ問題だしという、出歩くのも緊張しなくてはいけない。さらにいうと、意識の中に人を判断する時の価値のヒエラルキーが立ち現れてくるでしょうね。大事なものは大きく見えて、大事ではないものは小さく見えるという、ある種の「意味」が現前するようになるでしょう。
明治維新以降、この「意味」が重要になるのです。身分制度が撤廃されて、自由主義的な制度の社会になると、何が重要かを瞬時に判断する能力が必要になったりします。徒士層はこのような世界では有利だったのではないでしょうか。価値のヒエラルキーが存在しているというのを理解していたわけですから。さらに考えると徒士層こそが、明治維新の主要な役割を果たしたのではないかとも考えられます。

まあこんな風な感じで、歴史が解釈されてしまうわけです。

話はさらに続きます。

仕事で何か問題が起こったとします。その時大切なのは問題を収束させる事です。大事な事にのみ議論を集中させるべきです。でも職場にいないでしょうか?話を拡散させてしまうヤツが。そういうヤツは侍なのです。世界が平板なのです。後からゆっくり問題を吟味してまったく平気な世界に暮らしているのです。それに比べて私たちは徒士です。瞬時に意味を把握しないと命にかかわります。

まあこんな風な感じで、生活が解釈されてしまうわけです。

「近世大名家臣団の社会構造」はいろいろな日本人観念を喚起する力があります。


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ウィタ・セクスアリスとはラテン語で性欲的生活という意味らしいです。
明治42年発表。主人公の子供のころから二十歳くらいまでの性に関係する事柄が書いてあります。読んでみた結果、この主人公は性的にかなり堅い方ですね。実際に書いてあることは、子供のころ隣の女の子のお尻を見たとか、近所のオジサンに卑猥な言葉をかけられたとか、学生時代はホモの先輩にお尻を狙われたとか、そして童貞卒業は大学を卒業した後に吉原に行った時で、
「やるというのはこういうことか」
と思ったそうです。

あまり女性にもてた記憶のない私ですが、これよりはマシです。これよりマシな性欲的生活をしていました。大学に行くのに下宿していた時に、今の妻がよくその下宿に遊びに来ていましたから。一番最初に妻とやった時、終わった後めんどくさくなっちゃって、横においてあったヘーゲルの精神現象学概論を読みはじめたのです。彼女、すごい怒って。25年たった今でも何かあると、
「あんたはヘーゲルでも読んでいればいいでしょ」
と言われます。うちの妻の前でヘーゲルは禁句なんだよね。

話は戻ります。
ウィタ・セクスアリスの核心というのは性欲的生活、その中身にあるわけではないです。森鴎外は10歳のときは10歳の性的世界を、20歳のときは20歳の性的世界を書きます。誰もが10歳の世界を経験しますが、大人になって10歳の世界を表現することは非常に難しいです。児童本とか読んでも、結局そこに書かれているのは大人から見た子供の世界にすぎません。申し訳ないけれど、読んでて正直しらじらしい気持ちになるものが多いです。しかし、森鴎外は違うのです。少し引用してみましょう。

じいさんは僕にこういった。
「あんたのお父っさまとお母っさまと夜何をするか知っておりんさるかあ、あはははは」
僕は返事をせずに、逃げるように通り過ぎた。秘密を知りたいと思っても、夜目を覚ましていて、お父様やお母様を監視しようなどとは思わない。なんだかお社の御簾(みす)中へ土足で踏み込めといわれたのと同じように感ずる。そしてそんなことを言ったじいさんがひどく憎いのである。
しかし子供の意識はたえず応接にいとまあらざる程の出来事に襲われているのであるから、長く続けてそんなことを考えていることはできない。

森鴎外はなぜ子供世界のこんなにも近いところに立つことが出来たのか。そういえば子供時代って、出来事を全部受け入れて、毎日が新鮮で、だから意味のない悪意に脆かったりしたなーって。なんだか夢に似たところがあったような。

森鴎外がこのような子供世界を体感し表現できたという事が、彼が大正以降時代小説に舵を切った理由のヒントになるだろうと思います。


岡山県に笠岡市という町があります。そこの笠岡ラーメンというのが最近有名になっているらしいです。笠岡ラーメンというのは「さいとう」というラーメン屋が基本なのですが。ラーメン「さいとう」はもう存在しません。この失われた「さいとう」を再現しようとすることが、笠岡ラーメンのまあ魂みたいなものでしょう。

私は1980年代に「さいとう」にかなり通いました。30年たって伝説になるほど当時流行っていたというわけではありませんでした。ある時、テーブルにおいてあるコショウをラーメンにふりかけたら全然コショウの味がしないのです。だからどんどんふりかけていたら、小さなビンに3分の1ぐらい入っていたコショウを全部使ってしまった、なんていうことがありました。「さいとう」は流行ってるというわけでもなく、細かいところに気をつけるというわけどもなく、ただ普通の昔ながらのラーメン屋でした。

メニューはラーメン300円のみ。大盛りとかすらなかったと思います。大盛りと言えばしてくれたかもしれないですが、わたしもそんな注文を一度もしたことはないし、他の人がそんな注文をしたことを一度も聞いたことはない。お客さんはガラガラと引き戸を開けて店に入って、ちょっと硬いような椅子に座って、お冷を持ってきてくれた娘さん?にむかってただ
「一つ」
というだけです。それでラーメンが出てきます。何の問題もありません。

父娘でやっていたと思うのです。お父さんのほうは奥でラーメンをつくる役割で、ほとんど顔は見ないのですが、娘さんが忙しい時には、たまにそのお父さんが奥からラーメンを運んでくるのです。1980年代の時点で、70歳ぐらいだったと思います。娘さんというのは当時40歳ぐらいでしょうか。本当にごめんなさい、正直美人というわけではなかったです。

笠岡ラーメンというのはしょうゆ系のラーメンにカシワのチャーシューが乗っているというのが特徴です。とりたててインパクトのあるラーメンというわけではない。ただ何日かに一回はどうしても食べなくてはいけないという、そんなラーメンなのです。私が「さいとう」で食べていると、妊婦さんが一人で入ってきて、「一つ」と言って、ラーメンを黙々と食べていた事がありました。ただ思うのは、おなかの赤ちゃんも大きくなれば「さいとう」のラーメンを食べるようになるのだろうなということです。このような思考は妄想でも洗脳でもなく、あの「さいとう」の空間にいれば自然とそのような考えにいたるというような、そんなリアルな実感みたいなものなのです。そのような実感を多くの人が共有していたからこそ、「さいとう」がなくなっても、それを再現しようという人が現れるのだし、それを食べようという人が現れるのでしょう。そんな情念が、遠く離れた関東でも笠岡を知らなくても笠岡ラーメンは知っているという人を存在せしめるのだろうと思います。

死んだわたしの母親は、
「あんたがさいとうを好きなのは、あんたがおなかにいるときもここのラーメンを食べてたからだよ」
と言っていました。
わたしの妹は、
「齋藤よりも、ほかのラーメン屋のほうが私は好きだった」
と言っています。
それでかまわないのです。

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