magaminの雑記ブログ

2015年10月



「文学評論」は夏目漱石が東京大学の教授をしていたときの講義録みたいなものです。この本を読んだ印象を言うと、すばらしいの一言です。謙虚な福沢諭吉という感じです。

まあそれで何の文学を評論しているのかというと、18世紀前半のイギリス文学です。具体的には、アヂソン、スティール、スウィフト、ポープ、デフォー、です。スウィフトは「ガリバー旅行記」の作者です。デフォーは「ロビンソンクルーソー漂流記」の作者です。アヂソン、スティールというのは評論家で、ポープというのは詩人らしいですよ。これらの作者を知らなくても「文学評論」は読めます。「ガリバー旅行記」は有名ですが、実際にガリバー旅行記の逐語訳を読んだという人は少数でしょう。夏目漱石は優しいんだね、そんな18世紀前半のイギリス文学を知らない東大生にもそれが分かるように「文学評論」は書かれています。

だからなんなの?

そもそも18世紀前半のイギリス文学に興味あるヤツなんできわめて少数だろう。この忙しい世の中で、大人になってまでガリバーだとか、ロビンソンクルーソーだとか係わっている暇はない。

当然の意見だと思います。そもそも夏目漱石は何故18世紀前半のイギリス文学にこだわったのでしょうか。

現代のわたし達の周りにあるこ組みや精神を支配しているところの観念は近代ヨーロッパに始まりました。これをさらに突き詰めて、わたし達が当たり前だと思っているこの世界観は、精密にヨーロッパのいつ何処で始まったのでしょうか。夏目漱石はそこを問題にしようとしているのだと思います。近代が何処で始まったかというのは、おそらくイギリスだろうというのは有力な考えでしょう。では、18世紀イギリスは近代だったのかどうか? 夏目漱石はそんな切り口で「文学評論」を書いたのだと思います。

夏目漱石のデフォー論を見てみましょう。ロビンソンクルーソーが無人島に漂着したあと、彼はサバイバル生活を始めるわけです。そして彼が船から何を持ち出したのかを、デフォーは事細かに書いてくれています。フォークが何本だとか、板が何枚だとか。デフォーを写実主義と評価する人がいますが、ここまでくると映像記憶主義です。例えば、現代日本において、昨日の晩御飯何食べた?と聞かれたとき、ハンバーグと答えるのはいいとして、その後にレタスを何枚、ゆでた人参を何個と付け加える人がいるでしょうか?
しかしこのハンバーグとのみ答えるのが近代なのです。
現代のわたし達は遠近法の世界に住んでいて、大事なものは大きく、つまらないものは小さく見ることに慣れてしまっています。遠近法的思考は近代の特徴の一つです。例えば、現代の絵画はわたし達にとってリアルに見えますが、浮世絵なんてのっぺりしているように見えないでしょうか。くりかえすと、遠近法的思考は近代の特徴の一つです。そしてデフォーはどうでもいいことも事細かに書く。デフォーには遠近法的思考はないらしいと。で、18世紀前半のイギリスはまだ近代ではなかったらしいという事が分かるわけです。夏目漱石は明らかに近代というものを意識して「文学評論」を書いています。昔よくいた、ヨーロッパかぶれとかイギリス馬鹿とかそんなんじゃない。ここに夏目漱石の突き抜けたスゴさがあると思います。

「草枕」は奇妙な小説です。主人公の画家がどこかのひなびた温泉に行って、現地の人と少し仲良くなったという筋としてはそれだけです。では何を文庫本で170ページも書いてあるのかというと、様々なパターンのレトリックです。

「草枕」の出だしは有名です。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
まあ、犬も歩けば棒にあたる、みたいなものですね。

温泉に泊まって、静かな夕暮れ。主人公は机に向かって様々な言葉が浮かぶのです。
敢えて市井の「どうしゅうじ」を「きかく」して、好んで高く「ひょうち」するがためではない。ただ「しゃり」の福音を述べて、緑ある衆生「きしまね」くのみである。

何を言っているのか全く分かりません。漢語風なのかということがうっすら分かる程度です。

宿の近くに風流な池があるというので、主人公は出かけていきます。そこに椿がたくさん咲いていました。
みているとぽたりと赤いヤツが水の上に落ちた。また落ちる。人魂のように落ちる。年々落ちつくす幾万輪の椿は水につかって、色が溶け出して、漸くそこに沈むのかしらん。

このように様々なパターンのレトリックを次々と繰り出してくるわけです。夏目漱石、わざとやってますよね。筋を引き立てるためのレトリックというのではなく、レトリックのためのレトリック。「草枕」、読んでてつまらないわけではないですよ。こんなレトリックもあるのかと感心するところも多いです。ただ不思議なのは、何のために夏目漱石はこんな小説モドキのものを書いたのかということ。そしてね100年前の実験小説に現代の私達が心ときめく。これはなんなんだろう。

近代日本を理解するための一つの鍵ですよね。このような謎を体感できる日本の歴史の厚みと切実さというのは、日本というものの魅力です。



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沖縄が中央の指導に従わないからといって沖縄県知事を叩く人がいますが、それどうなんだろうって私は思います。
現在の日本の領土が古の昔から日本であったなんていうことはないと思うのです。明治維新以降、沖縄、台湾、朝鮮、と日本化されていきました。太平洋戦争の敗戦で台湾と朝鮮は日本から離脱しました。しかし沖縄は辛うじて日本に踏みとどまってくれました。これを当然だと考えるのか、ありがたいと考えるのか。

日本という概念にも中心とか周辺とかというサブ概念があると思うのです。例えば東北地方というのはもちろん日本ではあると思いますが、西日本や関東より遅れて日本に参加した地域であるだろうとは思います。本当に現代日本の全地域は一枚岩の完全無欠な日本なのでしょうか。遅れて参加した東北に欠陥原発を押し付けたなんていうことはなかったでしょうか。

日本というのは徐々に形成されてきて、互いが互いを思いやる事によって日本の外延の枠組みが維持されていると私は考えます。日本の神様がここからここまでが日本だといったからそれが日本だなんていう意見は支持できない。沖縄が日本にとどまるという選択をしてくれているのですから、善意には善意で答えるという話し方があっていいと思います。

何が最低って、善意に悪意で応える事ほど最低のことはない。これは右とか左とか言うのではなく、それ以前の話です。


「こころ」は前編と後編があって、
前編は、大学生である主人公が既婚ニートの先生と出会って仲良くなる、というもので、
後編は、先生の妻である女性をめぐって、かつて先生と先生の友人が争った事があって、先生はマキャべりなみの策略を用いて友人を出し抜く。友人は自殺して、先生は結局良心の呵責に絶えかね、主人公に自分と死んだ友人との間にあった出来事を長々と告白する手記を残して、自殺を予告する。その手記自体が「こころ」後編を構成しています。

話の筋なんていうものはあまりないのです。先生が一人の女性をめぐって、友人をどのような心理状態で出し抜いたのかという、その告白がメインの小説です。

話し自体、別にどうという事もない。別の見方をすると、女をめぐって友人に出し抜かれたからといって死んでいたのでは、命がいくらあっても足りないし、友人が死んだからといって自分も死んだのでは、これまた命がいくらあっても足りない。「こころ」、ぬるいんじゃないの? という感想も成り立ちます。

でもわたしが考えてみたいのは、現代の倫理を大正初期のこの小説に押し付ける事ではなく、「恋愛」とは何かという事です。

「恋愛」というものは、日本に昔からあるというものではありません。こういいきってしまうと言葉が足りない感じですね。もう少し詳しく言うと、現代のわたし達が知るような、青春時代特有の自分を見失うような恋愛は近代的なものである、ということです。現代的な恋愛観というものは日本の近代化とともに形成され、その年代を特定するなら明治20年代であろうといわれています。

何故近代化と共に恋愛が発生するのか、そもそも恋愛とは何なのか。

「ころろ」の中で先生はこういいます。
「自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこ淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
思わせぶりに先生はこのようなことを言って、しかしこの後先生はこの言葉の説明を一切しません。ただ私なりにこの言葉を解釈すると、
独立した精神なるものは伝統から乖離したものであり、その空隙が淋しさを生む。しかし現代に生きるものは独立した精神を必要としており、淋しさは痛みとして受け止めなくてはいけない。
ということだと思います。さらに言うと、
青春における恋愛とは、空隙を何かで埋めようとして失敗するところの、現代的成熟のための一つの過程なのです。青春の恋愛自体がうまくいくことはよくあることだとは思います。ただ結局恋愛によっては、それがたとえうまく行っても心の隙間は埋まらないのです。その埋まらないのを知る事が現代における成熟なのです。
トータルで考えると、精神の独立、淋しさ、恋愛、成熟、などの概念は近代以降のもので、日本で言うと、明治20年代以降のものです。

私は夏目漱石が現在においても読まれる理由というのは、日本の近代が立ち上がろうとするその時に真正面から人間の内面とか、恋愛、心の空隙、成熟というものを扱ったからだと思います。新しい精神世界が立ち現れる、その原初の生々しさが、夏目漱石の小説の中で再生され続けているという事です。



この世界で生きる意味を失うということはありえると思います。現実にリアルな肌触りを感じる事が出来なくなるという事だと思います。

呪われているのです。大事なことはリアルを信じる事です。これは別に宗教とか洗脳とかそんなのではなく、リアルを大事にするという、ただ普通に生きるだけの事です。

「病床六尺」にはリアルな肌触りがあります。正岡子規が死ぬ4ヶ月前の文章を要約してみましょう。太字は原文です。

昔の友達から手紙が来ます。
「提灯をぶら下げた品川時代が懐かしい」と
ああ、あいつもあの時の事を覚えているのか。8年前の春、二人で目黒の牡丹亭という料理屋に行った。そこで給仕してくれた愛嬌のある女を口説いたのだが、相手にしてくれない。
品川の方へ廻って帰らう
ということになった。例の女は提灯を持って我々を途中まで送ってくれることになった。
その女との別れ際、女は提灯を覗きながらその中へ小さき石ころを一つ落としこんだ。そのあと二人で品川に出た。品川は先日の火災の後で、小屋のようなものの窓から女どもがこちらを覗いている。珍しがってうっかりと佇んでいるこの時、我手元より炎の立ち上るに驚いてうつむいて見れば、提灯に火が移って燃えているのであった。

うたた寝に 春の夜浅し 牡丹亭

無駄なところが一つもないこのリアル、この理。最後の一句でぴったりと世界が収まるという、このみっしりとした感じ。精神が分裂してしまう余裕なんかない。このリアル。この肌触り。この世界は存在するんだという事を私たちに知らしめてくれています。
この世界はどんなゲームよりもリアルだということを教えてくれます。

当たり前なのですけれど。



俳句とか興味のない人がほとんどだと思います。しかし「墨汁一滴」は俳句を交えた随筆なので、俳句に興味のない人でもここには読んで感動する世界観があります。

現代に生きていると疲れますよね? 常時戦っているような気がしないでしょうか。
「墨汁一滴」において正岡子規は近代において戦う人間を応援しています。例えば、正岡子規は短歌の材料として「松葉の露」と「桜花の露」を比較しています。「松葉の露」は客観的、「桜花の露」は主観的であると判定して、主観と客観が分裂する以前の古ならともかく、近代に生きる明治人は客観的な言葉である「松葉の露」という言葉を使うべきだといいます。そして私達が疲れてしまうのは、この客観性ですよね。
一方で正岡子規は当時挿絵画家であった中村不折が頑張りすぎるのを心配して、
「不折は小さいキャンバスにも大きい景色を描く。大きい景色にこだわることはないのではないか」
優しい言葉を書いています。これを私なりに解釈すると、伝統に寄りかかって休息する事も大事な事である、ということだと思います。

人間は戦って疲れたら休む。これは当たり前の事であって、正岡子規はこの当たり前のことを主張しています。問題はどこでどのように休むかということ。幸いにも日本には歴史に培われた伝統というものがって、それを正しく覚えるのなら、寄りかかって心を休息させる事が出来るでしょう。俳句でも伝統的なルールのようなものがって、それを覚えて守っていいればある程度のものは出来、ある程度尊敬され、精神的に楽が出来るわけです。

正岡子規の「墨汁一滴」は、人生での戦う事と休息する事とのバランスの大切さを教えてくれます。バランスというは難しいのです。ですからこの本はすごくいい。



私は現在の日本政府にはかなりの能力があると思っています。

2006年、ライブドアショックでホリエモンが逮捕されて新興市場から株式市場は崩れました。ホリエモン逮捕だけではなく、その後もアネハのマンション耐震偽装事件、グッドウィル摘発、サラ金のグレーゾーン金利撤廃と政府は次々と株価の過熱を抑えるような爆弾を投下してきます。このような景気に対するブレーキ的事件は偶然なのかと思っていたのですが、2008年、リーマンショック。結局日本はリーマンショック以前に景気のブレーキを踏んでいたために、他国と比べて景気の落ち込みは軽かったということが言えるでしょう。

ここで大事なのは、日本政府にはその影響下にあるセクターを動かす事で、日本全体の方向をコントロールする能力があるということです。

ここ何年かで中国の経済が巨大化して、日本の指導者層も日本経済を筋肉質にしていかなくてはいけないと意識してきていると思います。
ではどうすればいいのか?
かんばっている人がもっと頑張る、みたいな単純な事ではどうしようもない。日本全体の合理化みたいなことを推進しなくてはいけなくなっているのです。そして日本には合理化の経験があります。それは太平洋戦争です。戦中においては、様々な日本の合理化が試みられました。例えば戦後実行された農地解放も戦中に農地解放案的なものが存在していて、実際に地主と小作人の関係が地域別に実地調査されたりしていました。戦中の日本合理化は時間的な問題もあって完全に実行されるというまでにはいたりませんでしたが、合理化の経験というのは日本の貴重な財産だと思います。

日本には経済合理化の経験がある。そして現在の日本政府には全体をコントロールする能力がある。中国の経済成長など、外部環境が日本の合理化を要求している。条件はそろっています。日本政府は合理化を実行するでしょう。

女性の社会参加が奨励されています。これも全ての日本人を日本経済に統合しようという日本政府の方針の一つでしょう。その場の思いつきでやっているわけではない。少し前に農協が叩かれていた事がありました。それは今回のTPPに向けての前振りだと考えるべきでしょう。安倍総理の通信料引き下げ発言も、日本合理化にむけた一つの現れであるでしょう。すべてはつながっていたのです。
そして今回の1億総活躍担当相。
これ以上分かりやすい命名はない。戦中の「総動員体制」のイメージが重なります。岸信介は東条内閣の商工大臣でした。戦後に総理大臣。その孫が安倍晋三です。

自由の日本が立ち現れようとしています。
自由とは何か。
女性であるからといって家庭に縛り付けられたりせず、農業や通信等の既得権に縛られた人々を解放する。生まれ持った自分の能力を全て出し尽くして、そして死ぬ。それが自由なのではないでしょうか。





パリコミューンとは1871年、普仏戦争の敗北後のパリに起こった労働者階級を主とする民衆によって樹立された世界最初の社会主義政権のことです。

ルフェーブルはこのパリコミューン「祭り」だと前提するのです。パリコミューンは2ヶ月ほどで崩壊するのですが、もっとうまく政権運営すればパリコミューンは継続的に存在し続けたのではないかという議論が存在します。ルフェーブルはそのような議論を押しのけて、パリコミューンは祭りであるのだから、敗北したとしてもパリコミューンが存在した事に意味がある、というのです。

これは非常に興味深い仮説で、パリコミューンの全てを説明できるほどの力強さはないですが、パリコミューンの一部分を説明するのには十分な論理の切れ味があるのではないでしょうか。

太平洋戦争にもこの「祭り説」が成り立つのではないでしょうか。太平洋戦争が始まった時、多くの人がもやもやしたものが一気に晴れるようなすがすがしい気持ちがしたと言っています。太平洋戦争が終わったとき、これは太宰治の「トカトントン」を読むとよく分かるのですが、強烈な虚脱状態になったといいます。太平洋戦争は永久戦争だと喧伝されていました。永久に続くはずの祭りは終わってしまったのです。
祭りは全員参加です。いじけて祭りに参加しないなんていうのは、よっぽどの変人です。祭りとは太平洋戦争と同じで「総動員体制」なのです。パリコミューンは普仏戦争の敗北で祭りのスイッチが入ってしまったのですが、太平洋戦争のスイッチというのは日中戦争でしょう。太平洋戦争の原因は日中戦争であるとはよく言われることなのですが、当時の人もまさか日中戦争が永久戦争なんていう祭りのスイッチになっていたとは思わないわけで、考えるべきことは太平洋戦争の原因ではなく、太平洋戦争の構造でしょう。例えれば、大事なのは誰が引き金を引いたかではなく、誰が火薬をつめたのかという事です。

ルフェーブルの「パリコミューン」から私が引き出せるのはここまで。
私の思索の旅はまだまだ続きます。



近代以降の人間の意識世界は、精神的なものと物質的なものとに分裂しています。これは論理と感情と言ってもいいし、観念と情念と言い換えてもいい。
日常、自分の意識というものは、論理的な自分が支配しています。しかし何かの価値を判断しなくてはいけないときには、意識的な自分は「内面の自分」にその価値を問いかけるのです。これは許されるか許されないかみたいな感じで。「内面の自分」は意識的な自分に何らかの価値判断をやんわりと教えてくれるわけです。

現代日本人の多くは、上記のような精神構造をしているのではないでしょうか。これは難しい話でもなんでもなく、そのような精神構造を持っている人にはたちどころに分かる話で、持っていない人には理解不能な論理でしょう。

これは私の個人的な仮説なのですが、
意識的な自分が存在しているにもかかわらず、「内面の自分」が勝手に語り出したのなら、それは多重人格障害であり、
意識的な自分が「内面の自分」を切り離してしまったのなら、それは統合失調症であり、
意識的な自分が衰えて「内面の自分」が露出してしまっているのなら、それはアルツハイマー型認知症であるのではないでしょうか。

日本において近代以前は、このような精神と物質の二元論的人間意識というものはなくて、内面の自分なんていうものは存在しない一元的人間意識の世界でした。歌舞伎とか浄瑠璃とかよく分からなかったりしないでしょうか。説明されればその劇の筋の意味は分かるのですが、ただ意味が分かるだけで、江戸時代の人々が何故このようなものに熱狂したのかは分からない。その分からない理由というのは、人間意識のありようが違うからなのでしょう。
日本人の人間意識の転換が起こったのが、明治20年代だといわれています。それから100年以上たって、日本人はかなり遠い所まで来ました。だから精神的二元論はもう転換できない。精神的二元論を受け入れたくないという人も存在するでしょうが、そのような人たちも周りの人間は二元論的人間であるという事を受け入れるしかない。

大事なことは、私たちの精神が分裂しているという事を意識する事で、そしてその分裂は歴史的な出来事であると認識する事だと思います。生真面目に意識的な自分か「内面の自分」かどちらかを選ぼうなんて思ってはダメ。どちらも自分なのですから。



小田原の磯丸水産という居酒屋に家族で行ってきました。

磯丸水産はクリレスが展開する居酒屋です。
3387クリエイトレストランツは外食大手で、居酒屋だけではなくラーメン屋や寿司屋など様々な業態の店舗を展開しています。
株価 2543円
PER 21.62
PBR 5.14
配当 33円
株主優待は
100株以上3,000円分
300株以上6,000円分
1,500株以上30,000円分
となっています。

先週の連休に私と妻、あと子供4人で箱根に旅行に行きました。ですから昼ごはんを小田原の駅前にある磯丸水産でとりました。小田原の磯丸水産は24時間営業で、営業時間を気にすることなく入店できたのはよかったです。24時間営業だけあって、ランチメニューなんていうものも見当たりません。ですから昼なのに普通の居酒屋感覚で、頼みたいものを各人が頼むという感じでやりました。
磯丸水産という居酒屋は初めて行きました。クリレスが展開する居酒屋なので、ちょっとシャレた感じなのかと思っていたら、店内は紙に書いたメニューを壁にべたべた貼り付けていていたりして、個人経営の居酒屋風でした。店員さんはハッピを着ていて、元気アピールでしょうか。

磯丸水産にあるテーブルにはそれぞれ

商品の詳細 
このようなものが置かれています目先が変わっていて、何かを焼いてみたくなります。実際いろんなものを焼きました。おにぎり焼いて、焼おにぎりだなんて。あとイカをやいたり、ソーセージ焼いたり。初めて磯丸水産に行くと、このカセットコンロについ目がキラキラしてしまって、ついいろんなものを焼きすぎるということはありえると思います。これを家でやったりすると、後の掃除のことを考えておちおち焼いていられないですよね。このカセットコンロが磯丸水産の売りだと思います。ショボイっちゃあショボイんだけど、目の付け所は悪くないと思います。
私はクリレスの優待をMaxの30000円抱えているので、ここで15000円は使いたいと思って、
「君たち、どんどん焼いちゃってください」
って感じで煽ったのですが、結局会計は10000円でした。6人で10000万円。

安いんだよね。

箱根で一泊して、帰りに昼ごはんどうする? って話になりました。優待が余っているので、私としては磯丸水産二連発の希望だったのですが、妻や子供は、
「それはさすがにチョット」
ということになりました。ですから小田原をスルーして、新百合のクリレスが展開する自然食品食べ放題「はーべすと」で遅い昼ごはんです。はーべすとで優待8千円消化。残り12000円。優待を使うのもも結構大変です。

どこでもそうなのですが、居酒屋も戦国時代です。例えば、居酒屋首位のワタミ。ワタミのメニューというのは悪くないと思うのです。居酒屋首位だけあって、メニューを客観的に見ればさすがという重量感があります。しかし業績はあのテイタラク。風聞とクリレスなどのちょっとしたアイデアで、巨人も駆逐されてしまうのでしょうか。

本当にちょっとした差なのです。このようなちょっとした差が、株価に雲泥の差を与えるとするのなら、株式市場とは本当に怖いところです。

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