magaminの雑記ブログ

2015年06月



大日本帝国は「総力戦」の名の下に太平洋戦争を戦いましたが、あれは本当に総力戦だったのでしょうか?

現代における「年金」だとか「社会保障」などというものは、その淵源を戦中に持っています。国民が安心して働けるように、まあすなわち安心して戦えるようにということわけです。私達は経済という戦争を満州事変に始まる総力戦の中で戦っているのです。

日本の総力戦体制が始まったのは昭和6年満州事変以降です。戦後総理大臣になった岸信介は満州事変後、軍部から満州に呼ばれて満州開発のグランドデザインを作ったそうですよ。そしてそのデザインはソ連の五カ年計画のまるパクリだったそうです。本人が自伝でそういっているから、まあその通りでしょう。

すなわち、「総力戦」「総動員体制」などと軍部が叫んだとしても、その準備期間みたいなものはたいしたことがない。ヨーロッパは第一次世界大戦で総力戦とはなんなのかを身にしみて理解しました。日本に比べて欧米は15年という時間を味方につけいてました。日本は欧米と総力戦を戦うための準備期間が短かったということです。

太平洋戦争で、陸軍と海軍は意思の疎通がまったくはかれませんでした。その状況は総力戦といえるのでしょうか? 戦争中は配給が滞り国民は闇市で生活物資を手に入れていました。その状況は総力戦といえるのでしょうか? 神風特攻隊に代表される最前線の将兵達は総力戦が戦われていると信じて死んでいったのでしょうが、総力を出し尽くしたのは彼らのみであって、日本全体として総力戦を戦ったなんていうことはとてもいえません。特攻隊が犬死だなんていう人もいますが、総力戦を戦いきった日本人を総力戦を戦いきれなかった日本人が批判するなんていうことは許されない。

あの太平洋戦争が正義の戦いであったか不義の戦いであったかなんていうことには意見の相違があると思います。しかしあの戦争で日本がひどい負け方をしたというは、衆目の一致するところでしょう。ひどい負け方の原因は日本兵が弱かったからだとか、日本人は合理的な思考苦手だからだとかなんていう意見は、これは全くの自虐民族史観だと思います。

この国には合理化するための時間が少し足りなかった、そういうことだと思います。



徳富蘇峰は文久三年生まれ。明治、大正、大東亜戦争の戦前戦中戦後を生き抜いて、昭和32年95歳で死去。時代の生き証人でありかつ空前絶後の大言論人です。

徳富蘇峰は戦前戦後と皇国史観を守ったので、現在ではかなり評価が低くなっていると思います。戦後になっても一君万民とか言っているのですから、この時点でキワモノ扱いになってしまいます。いくら大御所でもキワモノのレッテルを貼られてしまうと、ほとんど死人にくちなしみたいな感じで、どうしようもなくなります。

実際にこの徳富蘇峰「終戦後日記」を読んでみると、徳富蘇峰に貼られたレッテルなんていうのはどうでもよくなります。終戦時点で蘇峰は83歳なのですが、論理は明快、推論のすばらしい切れ味、明治を体験したもののみが語れる重みのある言葉、「終戦後日記」はかなりの到達点にあると思います。

太平洋戦争は何故起こったのでしょうか? 
普通に考えると、軍部が国家の権力を横領して勝てもしない戦争に国民を引きづりこんだ、みたいなことになります。
しかしそんなことがありえるのか? 日本は住民が100人くらいしかいない村なのか?

徳富蘇峰の意見を聞いてみましょう。
「藩閥政治が凋落して民権論者が勝ちを制したる暁は、政党横暴の時代となった。普通選挙でも行えば国民の意思が盛り上がるかと思ったが、その結果は投票売買の最悪なる買収政治となってきた。官僚政治はまだましかと思ったが、それもまた立派に裏切られた。官僚と政党とはやがては野合し、なんとも名状しがたき政治を打ち出した。最後の望みは陸海軍である。爾来ほとんど全力を挙げて軍を支持してきた。その結果が現在の大東亜戦争である」

この意見、どうでしょう? 
徳富蘇峰のこの論理は全てを語っているとは思いませんが、真実の一片を語っているとは思います。
徳富蘇峰の歴史認識、もっとぶっちゃけて言えば皇国史観にはウンザリします。しかしその現状認識にはすばらしいものがあります。物事の本質をつかむその腕力、いや、すごい。

しばらく、徳富蘇峰「終戦後日記」についての文章を続けます。


マルクスの資本論を一通り読んでみました。岩波文庫で全9巻ですから、かなり読み応えがありました。

マルクス主義なんていう言葉があるように、私はマルクスというのは社会主義思想の親玉みたいなイメージでした。しかし、資本論を読んでみても、マルクスは資本主義を否定するということまでは言っていないのではないでしょうか。たしかに資本家が剰余価値として、労働者から何らかのものを搾取しているとは言っています。マルクスは搾取しすぎるのは悲惨な状況を生み出しうるが、搾取する事自体が悪いとまでは言っていないと思います。経済的な競争についても、別にそれが悪いとも書いていない。商品の価値が適正な位置にあるのは競争が前提であるということを言っているだけです。

トータルで考えてみて、資本論は社会主義への推奨というものではなく、資本主義はもっと合理化できると言っているだけではないでしょうか。
例えば、ある土地で何かを生産しても労働賃金と資本家にとっての平均利潤は出るが地代はでないという生産限界みたいな土地があるとします。普通なら地主は地代の出ない事業には土地を貸したりはしないでしょう。しかし何らかの強制力をもって地主にこの土地を開放させる事ができたなら、労働賃金と平均利潤は確保できるわけです。何らかの強制力とは社会主義でもかまいませんが、そこまで行かなくても国家資本主義程度の統制でいいのではないでしょうか?

20世紀に入ってすぐロシアは共産化しました。日本やドイツは国家資本主義の統制経済となりました。しかしアメリカのニューディールなんていうのも巧みな統制経済ではないでしょうか。
資本主義は何らかの強制力でより合理化できる、という「資本論」の主張は歴史的にその正しさが証明されて、証明され続けているのではないでしょうか。



資本論
絶対的剰余価値の生産
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


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資産合計 34,229,187 円


5411とか8308とか6701とか普通の大型銘柄を空売りしています。

月火と空売りするのは予定の行動です。しかし売ってみて思うのは私の空売り、大丈夫か?ということ。日経平均は今までの流れを無視したようなあがり方です。
今週いっぱいは粘るつもりですが、すごくいやな予感がします。まあ私の予感なんて当たったり当たらなかったりと、何の役にも立たないものなのですが。


メガチップスはハイテク系だと思うのですが、PBR1.13倍。
株価は1630円、配当34円、
そして優待は、100株で3000円相当の百貨店カタログ商品、もしくは任天堂3DS専用ソフト1本です。

総合利回りは34+30/1630ということで悪くないですし、PBR1.13倍とハイテクにしては割安、この銘柄はいいのではないかとパット見、思うのですが、株価はもう10年以上横横で、多くの投資家にとっては、ハイテク成長株というより有名安定優待株みたいになっていると思います。

私には子供が4人いて、上から19歳男、15歳女、9歳男、5歳女となっています。優待は子供にだいたい持っていかれてしまいます。メガチップスの優待は9歳の男の子がいつもゲームを指定しています。今年は「ペーパーマリオ」でした。もう商品も到着してピコピコやっています。

私も百貨店カタログ商品3000円分なんていうのを自由に選んでみたいとは思います。こんな「ねまき」があったらいいのにとか、この傘かっこいいかもとか、いろいろ楽しそうです。

ああでも私にとってのそんな時間は過ぎ去ってしまったのですね。

子供というのは可愛くて、甘い優待の蜜も注ぎ込んでしまうのです。


資本論の8巻目でマルクスは、土地の値段について論じています。
資本主義下において、総利潤というのは剰余価値と労働賃金に分割されます。剰余価値は金利と事業利益と地代に分割されます。式で表すと以下のようになります。

総利潤=労働賃金+金利+事業利益+地代

労働賃金、金利、事業利益率というのは競争によって適正な利益率というのが与えられている。したがって地代というのは変動する。そして土地というものは動かす事が出来ませんから、地代というものは場所によって異なるという結果になる。
この結論は当たり前といえば当たり前です。
さらにマルクスは、地代がゼロ以下すなわちマイナスという事も理論上はありえるといいます。ただしマイナスの地代を払ってまで事業をしてもらおうという奇特な地主はいませんから、地代の期待値がゼロ以下の土地は未使用地みたいなことになります。

大筋では資本論の岩波文庫8巻の要約はこんな感じになると思います。
この本の前半は、期待地代の異なる土地を5種類ぐらいに分けて、それぞれに資本が投下されたらそれぞれの地代がどのように変わるか、なんていうことをこまごまと計算しています。私なんかにはこれらの計算が合っているかどうかなんていうことは分かりません。ただわかることはマルクスもしくはエンゲルスは非常に注意深い性格の持ち主だったという事です。
この本の後半は、地主というのはズルイということが主張されていました。地主が土地を借地人に一定期限の契約で貸した時に、借地人はその土地を一生懸命耕して、すなわち資本を投下して、借地の期限が終われば地主は資本が投下されて価値の高くなった土地を高値で次の借地人に貸す事ができるようになるからです。このようなマルクスの主張が日本の戦後の農地解放につながっているのだろうと思います。
ただ、マルクスは19世紀半ばのイギリスをモデルに土地制度を考えていますから、戦前の日本には当てはまる事柄も多かったでしょうが、今の世界に当てはまるかどうかというのは微妙なところだと思います。


資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


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「進撃の巨人」という話、舞台はヨーロッパの中世風、人類は50メートルくらいあるような壁で囲まれた場所のみが生存圏で、壁の外側は巨人の世界です。しかしその巨人というのは知性がない。ただ世界をうろうろしていて、人間を見つけると取って食べてしまいます。

人類の中の多くの人たちは、壁の中で暮らしていればそれでいいのではないのかなんて考えています。少数の人たちは、巨人の世界に打って出てそれを駆逐し、より広い世界を見てみたいと切望しています。しかし、巨人に対して戦いを挑んだ人たちは、かなりの確率でやられてしまいます。相手は巨人ですし、わらわら集まってくるし、こちらの武器は多少の機動装置と剣ですから。

何故壁があるのだろう? 何故外の世界には巨人がいるのだろう?  巨人とはなんなのだろう? 
話が進むに連れて、このような謎が解かれていくのでしょうし、謎が解かれるにしたがって新しい謎が生じてくるのでしょう。

近代が始まる前、例えば日本で言うと江戸時代。人々は狭い共同体の中でみっしりと暮らしていました。そこで暮らしてさえいれば、生きる意味とか世界が存在する理由とかそんなものを考える必要はなかったのです。互いが互いを必要としあい、死に行くものと生きるもの、過去と未来が渾然となり、そこには現代とは別の世界があったのだろうと思います。
その狭い共同体の外に出るとどうなるのでしょうか。
現代にくらす私達は、共同体の外に出てどうだったでしょうか。

もう「生きる意味」なんていうものは無条件で得ることは出来ないのです。生きる意味とか生きる価値とか、そのようなものは現代において自分の中に見つけるものです。生きる意味を自分の中に見つけられない人は、すなわち「巨人」に食べられてしまうのですよ。
「進撃の巨人」のなかの巨人とは、全てを喰らう現代における虚無、そういうことだと思います。
そう考えてみると、主人公が巨人に変身して巨人と戦うなんていうのは卑怯ですよね。あなたの周りにいないですか?、私は人生の虚しさを悟りつくしてクールにやってますよ、なんていう人が。虚無の振りをして虚無と戦うなんていう態度はどうなんだろうか。虚無とよく戦うものは、この世界に生きる価値があると確信したものではないでしょうか。

マルクスは「利子」というものは何なのかを考察します。

支出資本+労働賃金+不払い労働(剰余価値)=商品総額
という公式の中での剰余価値は、結局資本家が全て持っていくわけです。そしてマルクスは、資本家が経営者と出資者に分離された場合、この出資者に対する剰余価値の中での分け前が金利である、というのです。すなわち金利とは独特のあり方なのです。

しかし金利なんていうものは大昔から有ったのではないでしょうか?

もちろんマルクスはその辺の疑問に対してもフォローしています。
資本主義制度下における金利とは剰余価値の分け前ではあるのですが、金融制度が発達してきて銀行にお金を預けるだけで金利がもらえる、市場で株を買うだけで配当がもらえる、ということになってくると、資金の供給量が多くなって金利が資本主義制度下にふさわしいレベルまで下がってくる、お金には金利がつくという事が当たり前になる。結果、金利とは剰余価値の分け前であるということが忘れられてしまいます。

金利には資本主義下での金利制度と資本主義以前の金利制度の二パターンあるということになります。これは今でも存続していて、事業のために銀行から借りる場合は金利が低いですが、個人が遊興のために借りる金利は高くなっています。

金利というものが当たり前になるということで、19世紀前半のイギリスはこれまでの人類の経済的な枠組みを突破したのです。当時イギリスがどのような金融制度で、そしてどのように定期的に恐慌が起こるのかを、マルクスは当時のイギリス政府の議事録みたいなものを多数引用して解説しています。
しかしここは非常に分かりにくいとこで、金融の歴史を精密にさかのぼって検証していかないと19世紀前半のイングランド銀行のお偉いさんの語ったところの解説は理解できないレベルだと思います。

マルクスは7巻の最後でうまいことを言うのです。
資本を持たないが有能な青年がいたとして、彼が事業を展開しようとする時、資本主義下では低利で融資が行われるという事がありえる。出資者は剰余価値の分け前が期待できるところでは、資本主義的金利を適用するからだ。そして支配者階級が被支配者階級から新しい力を取り入れる能力があればあるほど、その支配はますます強固でますます危険である。
そう考えると明治政府はかなりアグレッシブに国家形成を成し遂げたと思います。可能性としては、幕府を倒したのだから薩長幕府をつくって身分制を固定し支配者面して楽しようなんていう選択肢もありえるわけですから。順番としては金利というものが一般的になった後に、支配者階級が被支配者階級から新しい力を取り入れるというブルジョア国家の強固化図られるわけですが、明治政府の場合は被支配者階級から新しい力を取り入れるという態度の方が先に存在しています。おそらく初期明治国家の一定の知的レベル以上の人々に何らかの共通認識が最初から存在していたのでしょう。このあたりが明治国家の不思議なところで、素直にすごいと思います。

資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


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6巻に入って、マルクス、本気出してきたのではないでしょうか。

資本主義下において、何故資本は利益をだすのかという問題があります。普通に考えると会社を回して利益が出るというのは当たり前の話で、不思議でもなんでもない。敢えて言えば利益は資本からにじみ出てくるもの、というのが普通の考えだと思います。でもこれは個別資本の話であって、閉じられた空間、まあ例えば一つの国の中での総資本について考えた場合、簡単に同じ事が言えるのかという問題があります。

マルクスは総資本について考えるために
支出資本+労働賃金+不払い労働(剰余価値)=商品総額
という前提を置きます。

すなわち資本家にとって利益というのは資本から滲み出してくるものではなく、労働者が行った労働に対して、ある割合を不払いにした結果だというのです。

資本家はこの不払い労働分を一定の割合で支出資本に組み込む事によって、資本主義は巨大化するわけです。
支出資本+労働賃金+不払い労働(剰余価値)=商品総額
という公式はうまく出来ているのです。
例えば、支出資本がどんどん大きくなったとします。すると不払い労働がどんどん増えて資本家はすごく儲かるような感じがします。しかしそうは行かないのです。支出資本が増えるということは、いい機械を工場に導入するということです。いい機械を導入すると労働賃金を節約する事ができます。最初は儲かるでしょうが、そのうち他のライバル工場もその機械を導入するようになると、支出資本+労働賃金と不払い労働(剰余価値)の比率がかつてより資本家にとって不利な比率で安定するようになります。
すなわち支出資本が増加すると利益率が低下するのです。
先進国の成長率が低くて発展途上国の成長率が高いのは、発展途上国の国民が頑張っているというのではなくて、先進国の方が支出資本が大きいから、すなわち金持ちだからということになるわけです。

支出資本+労働賃金+不払い労働(剰余価値)=商品総額
は当たり前のことが当たり前に説明できる素晴らしい公式なのです。マルクスはこの公式を様々に利用していろいろな経済現象を説明しようとしています。

しかしマルクスは天才肌なんでしょう。この公式と関係ないことを説明したりもしています。例えば、「資本論」 岩波文庫6巻277ページ
「生産物の商品への発展は諸共同体間の交換によって生ずるのであって、同一の共同体間の交換によって生ずるのではない」
とありますが、このようなことは公式によって自然と理解できる範囲を超えていて、マルクスの思いつきなのではないかと疑うレベルで、検証が必要だと思います。

マルクスの論理のヒエラルキーを大事にしながら、7巻以降も読んでいこうと思います。


資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
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廣松 渉 「マルクス主義の地平」


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私の知り合いの女性が
「インドの男性の性欲は半端ない。日本女性がインドを旅行していて集団で強姦されて、ひどい有様で殺されたらしい。インド男性の言い訳が、夜遅く出歩いている女性が制裁を受けるのは当たり前のことだ、といもので、これはちょっとありえない」
と言っていました。

そんな事実があったのかどうか私は知りません。しかしもしあったとするなら、ああインドの人たちは囚われているのだなと思います。インドの女性はもちろん、男性もまたもっと大きい枠組みで自分を表現できるようになるなら、それはよりいいことだろうと思います。

では彼らはどうすればいいのか。

遥か未来においては、インドのしがらみのようなものも徐々に解けていくという事もありえるでしょう。しかし一つだけ彼らを急速に開放する手段があります。

総力戦としての戦争です。

インドと、どこか分からないですが他国との全面戦争が始まったとします。この戦争に負ければインド民族(そのようなものがあるかどうかは知りません)が消滅する可能性があります。全面戦争ですから。インド国家は今までのゆるい体制を放棄して、国民全体を引き締める政策をとるでしょう。インド国民誰一人としてぼんやりすることは許されません。夜、女性が一人で歩いていたとしても、それがインド国家のためであるなら、もう何の問題もないということになるでしょう。全面戦争においてインド女性も銃後で十分役に立つという事が証明されるでしょう。それぞれがそれぞれに国家の役に立って、あるものは死にあるものは生き、そして戦争は終わるでしょう。戦争が終わったインドの女性も男性もかつての狭い価値観からある程度自由になるでしょう。なぜなら彼らは国家において役に立つと証明されたのですから。
インドの全面戦争から70年もたてば、インドの経済もあの戦争前より遥か高みにあるでしょう。国家にとって役に立つと証明された男性も女性も、戦争前より遥かに個人的な権利を認められているようになっているでしょう。夜遅く女性が歩いているだけで強姦されるなんていうことは、社会的に許されない犯罪だという共通認識が存在しているでしょう。
全面戦争から70年後のインドで、もしあの戦争で死んだインド人は犬死だった、あの戦争がなければインドはもっとスムーズに経済発展していた、なんていう人がいたとしたら、あなたそう日本人のあなたはどう思うでしょうか。インドの今の自由の枠組みは、かつての大戦争で死んでいったインド人のその上に存在しているのにと悲しい気持ちになるでしょう。

そういうことなのです。

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