magaminの雑記ブログ

2015年05月


トレジャー・ファクトリーは
株価 1486円
配当 18円

PER26.39 倍PBR5.63 倍
と、かなりの割高になっています。

優待は年1回で、
100株でクオカード1000円分が実質的なメインです。あと、20%買取金額アップクーポンとプレゼント抽選券「トレジャーロト」がオマケみたいについてきます。

私は2年以上前にトレジャー・ファクトリーを優待狙いで100株だけ買いました。この「トレジャーロト」というのを一回やってみたくて。これが実際送られてきてみると、単なる銀剥がしくじで、つめの先でガリガリ削ってはいハズレみたいな感じです。今まで2回「トレジャーロト」をやって一度も当たっていないです。トレジャー・ファクトリーのホームページで確認すると、1等2等3等全部あわせて50人しか当たりません。東証一部ですから株主数は2000人以上いるでしょう。確率からすると、生涯トレジャー・ファクトリーを現物保有しても一生に一度「トレジャーロト」が当たるなら、それは運のいい人生だったという部類になるでしょう。

「トレジャーロト」目当てに株を買ったのですが、しかしトレジャー・ファクトリーはその後株価4.3倍というちょっと考えられない株価の上昇振りです。トレジャー・ファクトリーなんていうのは結局「古着屋」だと思うのです。「古着屋」が悪いわけでは全くないのですが、「古着屋」に利益を期待してはいなかったのです。

しかし今から思い返してみると、古着屋というのは都心近郊のマイルドヤンキーにかなり需要があると雑誌で読んだことがありました。マイルドヤンキーは年収は低いでしょうが、実家暮らしと貯金をしないという性向でかなりのマーケットを持っているらしいのです。マイルドヤンキーは私から見れば奇妙な服が好きみたいですが、マイルドヤンキー間でトレジャー・ファクトリーを介して古着が循環しているのでしょう。ヤンキーの間で奇妙な車が循環しているのと同じ事です。
マイルドヤンキーは親に助けられての消費ですから、何年かすれば時の流れの必然としてマイルドヤンキー消費も縮小していくでしょう。ですからトレジャー・ファクトリーをここから買うというのも厳しい。しかしとにかくトレジャー・ファクトリーは一発当てたわけですから、私は素直にすごい、ありがとう、と思っています。


「資本論」の4巻目をやっと読了しました。一週間以上かかりました。急に読みにくくなるんですよ。

4巻目の前半は、資本がその循環中にとる様々な形態について、後半は、その循環が繰り返されることについての研究です。
ただマルクスはすごく細かいのですよね。固定資本と流動資本とはどのように分離すべきだとか、この利益は資本につけるべきか別のところがいいのか、そんな話を延々とやります。
私は別に会計学の歴史まで知りたいわけではないですから、一応マルクスの文章に目は通しはしますが細かいところは「申し訳ない」、スルーです。

ただマルクスは「資本論」の4巻目の最後で面白いことをいいます。一人の資本家が頑張って商品をより増産した結果より儲かる、これは分かります。しかし一つの国の中で商品を増産した結果国が豊かになるとはどういうことなのか。商品が増産されれば商品の値段が下がってトータルでの商品の価値量というのは変わらないのではないのか。

「資本論」は核心的なところをちらりと見せつつ、5巻目に突入です。岩波文庫全9巻というから先は長いですね。


資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


関連記事/底辺会社の現実 1
     底辺会社の現実 2
                           
                           



  かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道 






資本主義とは自己増殖の論理であるというのですが、ではその最初の資本とはどこから来たのか?

資本主義に必要なものは賃金労働者と設備投資の資金なのですが、イギリスにおいて賃金労働者なるものはどこから現れたのか。
15世紀ぐらいまではイギリスも日本と同じように村落共同体というものがあって、人はその共同体の中でまあなんというか平和に暮らしていたそうです。ところが15世紀以降領主、日本で言う大名でしょう、が小麦よりも羊を飼ったほうが儲かるんじゃないの、ということで畑をどんどん牧草地に変えていったそうです。村落共同体からはじき出された人々が都市に流入して、プロレタリアートの原型をなしたというわけです。

これはこれでいいでしょう。イギリスの農民はかわいそうではありますが、これは結局イギリスの問題ですから。日本人にとって関心事なのは、イギリス資本主義の最初の資金はどこから来たのかということです。

もしかしてあれ?

植民地から収奪してきたということなのです。マルクスはアメリカやインドやアフリカでヨーロッパがどのように残虐に人民から血と脂を搾り取ったのかを書いてくれています。
マルクスもヨーロッパ人なのですから、この辺は書きにくいところなのではないかと思うのですが、関係ないみたいですね。

資本主義の本源的蓄積は本国労働者の汗と植民地人民の血の中から現れ出てきたものなのです。

資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


関連記事/底辺会社の現実 1
     底辺会社の現実 2
                           
                           



  かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道


資本論 3 岩波文庫 / カルル・ハインリヒ・マルクス 【文庫】
資本論 3 岩波文庫 / カルル・ハインリヒ・マルクス 【文庫】

19世紀後半のイギリスでは資本は巨大化して、労働者の多くは生命維持ギリギリの状況に追い込まれます。
資本は大きければそれだけ有利なので、資本の寡占化が進みます。巨大資本と烏合の衆である労働者では力関係が一方に傾いてしまったのです。

マルクスはイギリスよりさらに資本家の天国であるところのベルギーの現状を報告しています。
ベルギーは人口465万人。そのうち選挙権を得られるほどの上流階級9万戸45万人、中産階級人口195万人、労働者階級家族225万人。
この労働者階級家族225万人平均の食費に回せる賃金では、ベルギーにおける囚人に与えられているカロリーも賄えないという。

このことは国が資本の蓄積過程を歩む場合によくあることなのです。河上肇は「貧乏物語」の中で大正時代の日本の労働者階層がどれほどの貧困の中で生活しているのかを描いています。

このことは文明に暮らす同じ人間として許されることなのでしょうか。この事が許されるとするならば、文明そのものを否定する場面に立ち至る事になるでしょう。彼らはどのようにすれば救われるのでしょうか?

第一次大戦以降、列強同士の戦いというのは総力戦となるのが常識となります。総力戦となれば労働者階級こそが貴重なる国家の尖兵となります。戦争が眼前に見える中、貴重なる国民層が自らの肉体すら維持できないであろう栄養状態では、もうこれは国家の滅亡です。
すなわち戦争状態は労働者階級の地位上昇を示現するのです。
軍部や革新官僚、彼らを押し上げた国民層において、戦争状態は自らにとって有利なのです。戦争を煽れば煽るほど彼らの社会的階層は上昇します。そして煽った結果が太平洋戦争です。当時の多くの国民にとって大事だったのは、戦争に勝つ事ではなく、戦争状態を維持することだったのでしょう。

日本は戦争には負けましたが、戦後も総動員体制は継続します。戦時国家から福祉国家へ。名前は変わりましたが、実質的には同じものだと思います。
現代日本国民の一般庶民のある程度の生活レベルというのは、昭和10年代に始まる総動員体制のある種の実りだと思うのです。現状の庶民の生活レベルはかつて戦争で死んでいった人たちを梃子に成し遂げられたものであり、本当に大事にしなければいけないものだと思います。
自己責任論などと、国民自らの根幹を掘り崩すようなことは私は感心しないですね。現代において戦争というものはもうプロの仕事であり、私達が福祉国家を手放せば、昭和初期とは異なりもう再びそれを取り戻す手段はないのです。


資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


関連記事/底辺会社の現実 1
     底辺会社の現実 2
                           
                           



  かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道 





資本家にとっての絶対的剰余価値の生産とは、労働者に長時間労働をさせてより儲けようという事だったのですが、1日は24時間しかないわけで、長時間労働といっても限界があります。
資本化が限界にぶつかって、そして出てくるのが相対的剰余価値の生産です。労働者を同じ時間使うにしても、機械を使う等して生産過程を合理化すれば、より賃金を少なくより生産物を多く出来るわけです。

生産過程を合理化すれば儲かってハッピーみたいな感じになると思いますよね。しかしなかなかうまくはいかないのです。誰かがうまくやれば、みんなその事を真似るようになります。結局生産する商品の値段が下がって、そして利益率が下がるという。利潤は更なる合理化に資本家を駆り立てることになります。

資本主義の歯車が回り出すのです。

西暦1800年まではヨーロッパも東アジアも経済的にはたいした差はありませんでした。1800年ごろから、この相対的剰余価値の歯車が回り出し、ヨーロッパと東アジアには決定的経済格差が発生し始めます。

「資本論」の岩波文庫2巻を要約すると以上のようになると思います。

しかし資本論の要約なんていうのは多くの人がやっている事でどうという事もないです。資本論を実際読んでスゴイナと思うのは、マルクスが19世紀前半のイギリスで一般の人々がどのように生活していたか、19世紀前半のイギリスの子供達がどのようにひどい環境にあったのかの例を延々と記述することです。マルクスの描く歴史には英雄なんていうものは存在しない。勃興する資本主義下で必死に生存しようとする人々が存在するのみです。

知識人の欠点というのは、ぶっちゃけていえば常民を馬鹿にするということにあると思います。どこかで自分を貴族だと思っているのです。マルクスでさえ他国の子供に真剣に同情しているのです。これはどういうことなのだろう。万人に優しい気持ちというのを力強く押し出す、ということは大事な事だと思うのです。大概そのような態度は嫌われるのです。余計な世話と思われるのでしょう。そう思われても敢えてマルクスは言うのです。

あなたの呪いを解いてあげよう



資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


関連記事/底辺会社の現実 1
     底辺会社の現実 2
                           
                           



  かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道





剰余価値というのは、労働者が資本家のために無償で働く事により生み出す価値のことです。


商品はそれぞれに関係しあっていて結局価値体系を形成している、というのがここまでのマルクスの論理展開でした。労働者が自分自身を再生産するための必要な賃金、すなわち食べたり寝たりリフレッシュしたりさらに結婚して子供を育てたりするための生活資金を資本家は労働者に払います。そしてその分の価値が生産された商品に上乗せされて、その商品は商品の価値体系に参加しています。

美しい価値体系のカテドラル。

では資本家はどこから再生産のための資金を調達するのでしょうか?
結局、資本家は労働者にその価値体系にふさわしい以上に商品を造らせることによって剰余価値を得るわけです。
資本家は労働者に商品を造らせれば造らせるほど儲かります。ですから、資本家は資本家としての社会的力を利用して、労働者に長時間労働を強いるのです。

マルクスは、イギリスの19世紀前半における悲惨な長時間労働の例をこれでもかと挙げていきます。労働者は搾取されすぎで、その体格までも矮小になっていったというのです。

ここは考えどころです。

国家を支配するものが金儲けに走りすぎて国民の体力を損ねるような事があるならば、その国はどうなるのでしょうか。第一次世界大戦は1914年からです。総力戦の戦争において国民の体格が矮小であるというのでは、その国の滅亡は眼前に見える。
大戦前のあまりにも悲惨な搾取、二つの大戦による総動員体制。この二つの相矛盾する状態、その相克から現代の福祉国家というのは現れてきたのだろうと思います。
そうなると現代日本で私達がまがりなりにも文化的な生活をいとなめるのは、過去に苦しみながら死んでいった人たちのおかげという事になりますね。

この世界は当たり前としてこのようにあるというわけではない。二つの大戦がなければもっと早く今のような比較的自由な世界が現出したであろうと考えるのは、物事を簡単に考えすぎがちな人によくある、まあある種の妄想です。昨日あなたがパチンコで10万負けたとすれば、負けるパチンコ台に座ったからなのでしょうか、それともパチンコに行ってしまったからなのでしょうか?
太平洋戦争で死んだ兵士達は犬死であったという意見もありますが、それは全く正しくない。左翼とか右翼とか関係ない、そのような意見を語る人は、日本人の恥辱である。


資本論            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


関連記事/底辺会社の現実 1
     底辺会社の現実 2
                           
                           



  かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道






マルクスを実際に読んでみようということで、まず「資本論」から。

しかしこの「資本論」、岩波文庫で全9巻というのだから手強いですね。1日100ページづつ読んで、自分に理解できたところだけでもここにメモして以いこう思います。


岩波文庫「資本論」一巻目を読んでみましたが、のっぺりした文体で同じような事を繰り返すような感じの文章の連続で、理解は出来るのですが読みにくい部類の始まりでした。

私の理解した限りでの「資本論」第一編をメモしておきましょう。
商品には一見その商品自体に価値があるように見えます。しかし資本主義の世界では、商品の価値というのは商品同士の関係によって決まってきます。商品同士が関係しあう、まあなんと言うか商品価値体系みたいなものが存在していて、その関係性の資本主義世界に入ることによって商品にはそれ自身価値があるように見えている、マルクスはそう言うのです。
それはそうでしょう。

資本主義以前においては、あらゆる存在は金色の糸で天とつながれていた。近代とはその金色の糸を切る歴史である。ヘーゲルはそんなことを言っていました。金色の糸を切られた商品群は、それ自身の価値を神ではなく商品同士の関係性に求めたという事ですね。
価値の関係性の中には価値の低い商品もあったり高い商品もあったりします。その商品の価値の高低というのはどこから来ているかというと、その商品にかけられた人間の労働力時間の長短による、とマルクスは論理を展開しています。
突き詰めて考えればマルクスの言う通りなのかな、なんて思います。

こんな感じで、これから一ヵ月半程度をかけてマルクスの「資本論」を読んでいこうと思います。

はじまったばかりだ。


資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


関連記事/底辺会社の現実 1
     底辺会社の現実 2
                           
                           



  かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道 
   



    






宮本常一「忘れられた日本人」という本の中に、土佐の山奥に住む乞食の老人にインタビューしたものがあります。
これがすばらしいのです。
どうすばらしいのかというと、女を語らせたら川端康成より上、告白させたら太宰治より上、というものです。文学的に見ても出来がいいので、このインタビューは宮本常一の創作ではないのか、という噂があったぐらいです。

これを原文を交えて紹介していきましょう。太字は原文です。

この老人のインタビューは文庫本で30ページ、全編老人の独白形式になっています。
独白の時間は昭和15年くらいでしょうか。高知の山奥、四万十川に架かる橋の下に80を越えた乞食で盲目の老人は、60年連れ添っている老婆とともにみすぼらしい小屋に住んでいるのです。
この盲目で乞食の老人にも、もちろん若い時代はありました。生まれは伊予の喜多郡。土佐との国境に近いところです。ててなしごとして生まれ、村の枠組みからこぼれ落ちて、15の時から「ばくろう」の見習いとして働き始めます。「ばくろう」とは西日本においては牛を売り買いする職業を指します。ポジション的には農民の下、盗人の上ということらしいです。二十歳のころばくろうの親方が殺されて、この老人は二十歳にしてばくろうとして独り立ちするのです。明治20年ですね。殺された親方には妾がいたのですが、その妾はこの老人が引き継いだのです。妾には12才の娘がいて、二十歳のころの老人はこの娘と出来てしまうのです。

おっかあのねている間にものにしてしもうた。それからわしは娘をつれてにげた。雪のふる山をこえてはじめて伊予からここまできた
わしも一人前の人間になりたいとおもうた。

紙の原料になる木の売買をして3年ほど暮らしました。しかしその木を管理する役人の嫁さんに惚れてしまうのです。職業柄、その役人の家に出入りするようになるのです。

その嫁さんがええひとじゃった。眉の濃い、黒い目の大けえ、鼻筋の通った、気のやわらかな人でのお。

ドキドキしてきますね。

それでも相手は身分のある人じゃし、わしなんどにゆるす人ではないと思うとったが、つい手がふれたときに、わしが手をにぎったらふりはなしもしなかった。

秋じゃったのう。

この後、山の中腹にあるお堂の中であいびきをするのです。

「わしのようなもののいうことをどうしてきく気になりなさったか」
「あんたは心の優しいええ人じゃ、女はこういうものが一番ほしいんじゃ」

このあと何回かあいびきをしたのですが、老人は相手に迷惑がかかってはまずいと思い、一人で伊予に戻ったのだそうです。

明治25年ごろでしょうか。その青年は伊予に戻ってまたばくろうを始めます。牛の取引の関係で、村の有力者である県会議員の家に出入りするようになります。家のことは女の仕事でしたから、その県会議員の嫁と知り合いになります。

ああいう女にはおうたことがなかった。色が白うてのう、ぽっちゃりして、品のええ、観音様のような人じゃった。

牛の事でその家に通っているうちに、県会議員の家で飼っている牛の種付けの話が出るのです。そして実際に種付けをします。牡牛は事が終わった後牝牛のお尻をなめるそうです。

おかたさまはジイッと牛の方を見ていなさる。そして
「牛の方が愛情が深いのかしら」
といいなさる。
「おかたさま、牛も人間もかわりありませんで。わしならいくらでもおかたさまの・・・」
おかたさまは何もいわいだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。

わしは納屋のワラのなかでおかたさまと寝た。

このおかたさまはこれから二年も立たないうちに肺炎でポックリ死んだそうです。その後青年はばくろうとしてあちらこちらを渡り歩きます。50の時に病気で目が見えなくなったそうです。おそらくなんらかの性病でしょう。盲目になって、昔のつれあいのところにもどります。その後30年以上、四万十川の上流に架かる橋の下で乞食生活です。

この盲目の乞食の独白はすばらしいものがあります。
こんな事をいうとなんなのですが、渡辺純一や辻仁成の文章はこの乞食の独白の足元にも及ばないです。なぜなら、渡辺純一や辻仁成の描く女は男から見た女だからです。乞食が描く女は女そのものだからです。

この物語には「落ち」があるのです。乞食が女にモテる秘訣をレクチャーしてくれるのです。

聞きたいですよね。

わしわなぁ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさだった。牛ちゅうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、あうと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけは嘘がつけだった。女も同じでかまいはしたがだましはしなかった。

牛も女も自分も同じ扱いなわけです。ここまでやらないと真の女は描けないわけですね。これは常人にはムリ。女を描いた日本文学は多いですが、おそらくこの四万十川の乞食がその最高峰でしょう。
辻仁成は女を描きたいなら、フランスに行くのではなく四万十川に行った方がいいね。


忘れられた日本人 (岩波文庫)

新品価格
¥864から
(2019/3/11 23:05時点)





関連記事/ 
底辺会社の現実1 底辺会社の現実2 底辺会社の現実3 底辺会社の現実4
底辺会社の現実5 底辺会社の現実6 底辺会社の現実7.......底辺会社の現実ラスト







現在の日本で「自己責任」という言葉がかなり広がっています。収入が少ないのは本人の努力不足、学歴が低いのは本人の努力不足などというもので、このような主張は通常の会話レベルの論理体系では反論不能な力を持ち始めています。

自己責任論が流行した時代がかつての日本にありました。明治15年、加藤弘之が社会進化論なるものを唱え始めます。社会進化論とは、ダーウィンの進化論を人間社会にも当てはめて、弱肉強食の社会制度こそが社会を進歩させるのに最も都合がいいと主張するもので、自己責任論の究極形態みたいなものです。私にしてみればこれは奇妙な論理だと思うのですが、当時この論理はかなり流行したみたいです。

この「自己責任論」、景気がいいときは問題ないのです。怖いのは景気が悪い時。

昭和4年、アメリカでの株価大暴落の影響を受けて、日本もとんでもない不況になります。反論不能な自己責任論を覆そうとすれば、まずどのような事が考えられるでしょうか。
昭和7年、一人一殺の血盟団事件、それに続く515事件。
テロですね。

反論不能のイデオロギーを敢えてひっくり返そうとするのですから、いくらでもテロは続きます。

相沢事件、それに続く226事件は昭和11年です。

この後は軍と革新官僚が権力のヘゲモニーを握って、日本は全体主義国家となります。
結局、自己責任という合理主義を突き詰めた結果、全体主義というより合理主義の国家体制になるということになったわけです。
自己責任論というのは弱者を切り捨てる論理です。しかしこの切り捨てられるであろう人々にも何らかの役割を与えてトータルとして国家の力にしようというのが全体主義の論理です。
ファシズムのほうが自由主義より説得力を持って立ち現れるということがありえるのです。

自由主義と全体主義とどちらの価値がどうだとか、そのようなものは移り変わるものでしょうから判断は難しいでしょう。ただ反論不能を頼りにして自己責任論を主張しすぎると何年か後に恥をかくということはありえると思います。



この本は1982年初版ということですから、20年以上前の書かれたということになります。

当時は松田聖子に代表されるような「ぶりっ子」というものが流行っていてました。「ぶりっ子」とは、男目線での可愛い女性というものを強調するしぐさをする女性のことで、この「セクシィ・ギャルの大研究」でも言及されています。
私も当時リアルタイムで「ぶりっ子」を目撃しましたが、可愛いというより女性とは大変だなと思いました。自分らしさを強調するなら共感できるのですが、男性から見た女性らしさを強調するというのですから、平均的な精神力の人間ならアイデンティティーの崩壊まで考えられますよ。統合失調症ですね。

さすがに今はぶりっ子女性なんていうのはいなくなりました。そんな女性が好きな男性はキャバクラにでも行くしかないでしょう。
35歳以上で独身という男性には、このような女性の変化というものについていけなかったという人も多いのではないでしょうか。

しかし普通に考えれば昔の女性像というものが異常だったのではないでしょうか。
男性は「若い」女性が好きですよね。でも女性だって「若い」男性が好きなのですよ。
私の会社にもいます。40になって独身で、若い女性好きを強調する男が。私はやんわり言います
「女性だって若い男性が好きだって、うちの妹が言ってましたよ」
その男は顔を引きつらして
「男と女は違うんだよ」
と言っていました。私だって空気を読みますから、これ以上は突っ込まないです。馬鹿が馬鹿を言っている。鼻で笑って、あっそうみたいなものです。

カントは道徳とは何かというと
「人を手段ではなく目的として扱う事」
と言っています。
私はカントの言う事が全て正しいとも思わないですが、この自由主義の世界でやさしさというものが存在するなら、「人を手段ではなく目的として扱う事」というところから自己を形成していかなくてはいけないと思います。にもかかわらず「男と女は違うんだよ」なんて公言してしまえば、女性の人間性に対するやさしさを放棄することになります。そんな男は一生独身、一人でオナニーでもしてろということになります。私は自己責任と言う言葉は使いたくない。「自己責任」の概念は時代によって遍歴しますし、概念的強制になって人間性を損なう可能性もありますから。でもただ女性の人間性を否定してその結果彼女がいないというのは、自己責任というしかないですね。

このページのトップヘ