magaminの雑記ブログ

2015年04月



未婚率がここ20年ぐらいで急速に上がっています。何故なのでしょうか?

日本において結婚というのは、女性にとってかなりコストのかかるものになっています。多くの世帯では子供が出来ると女性は会社を辞めて3年から6年ほど育児に専念します。そして子供が大きくなるとパート等の補助的労働者として社会復帰します。

普通に考えればこれはひどい話です。大学まで出た女性が40にもなってアルバイト生活だなんて。大学で学んだスキルはどこに消えてしまったのでしょうか。
20年位前までは、女性の幸せは結婚して子供をつくること、なんていう母性愛を強調する論理が横行していました。母と子の心のつながりというのは近代以前もあったでしょうが、明治以降特に戦後、この母性愛が極度に強調されるようになってきます。母性愛が近代に作られたものであるのなら、女性が結婚に対してリスクとリターンを計算するようになったとしても、私は倫理的な問題はないと思います。

女性が結婚をコストが高いと思うようなればこれを避けようとします。当たり前の話です。では、男はどうすれば結婚できるのか?

1 女性のコストに見合う高年収を得る
2 女性のコストをその許容範囲まで下げるよう確約する。家事育児の分担などで、女性がその知的レベルにふ   さわしい収入を得られるようにサポートする
3 若くてバカな女を騙す
4 イケメン

3の若くてバカな女を騙す、というのが男にとって一番魅力的なのですが、この技は男性も若いうちしか使えない。男性が若い女性が好きなように、女性だって若い男性が好きですから。
4は宝くじみたいなもので、夢を見るのはご自由にという感じです。
現実的なのは1と2ですが、誰でも出来るなんていうものではないです。とくに2を目指すのなら自分の精神構造を変えるという苦しさを伴なうこともあるでしょう。

結婚の目的というのは、ぶっちゃけて言ってしまうとほとんど「子供をもつ」ということです。このような現代の状況になってくると上野千鶴子の言うとおり、子供とは「高級品」というべきものです。子供の可愛い時間を真剣に味わう。
電車に乗ると、休みの日など子供を抱いているお父さんがいるでしょう? 彼らは黄金の時間を味わっているのです。子供のいない人には決して味わう事のない時間を。

昔はマルクス主義のみが世界をトータルで語る論理だったらしいですが、今はウォーラスティンの「近代世界システム論」というのがあるのです。

この世界でよろしくやっていこうなんていう人が大半だと思うのですが、私なんかはこの世界の仕組みなんていうのが子供のころから気になってしょうがなかったです。何で自分はこうなんだろう、何で世界はこうなんだろう、とおもって、自分なりにいろいろ考えてきたのですが、サッパリ分からない。周りの人間は自信満々に私に喋りかけてくる。こいつらはよほど世界の秘密を知っているのかと思って話を聞いてみても、結局何も知らない。こんなことは言いたくないけど、お前は馬鹿かと。俺も何も知らない馬鹿だけど、お前らはそれ以上だよ。

そんな時に、「近代世界システム」


この世界には頭のいいヤツがいるんだな。マルクスを越えて世界を語ろうというのだからすごいよ。世界の内側から世界を知るというのはとても難しい事なのに。この近代世界システム論を使っていろんな開放論理が展開されるでしょう。

15年戦争なんていうも、こんな事を言うとなんなのですが、システムの結果というか、日本が中国を侵略してしまってのも世界システムの結果というか。
日本はそんな悪い国ではない。悪意に凝り固まった国というわけではない。でも、世界の流れに逆らってまで、普遍の善意を主張できるほどの強い国だとも思わないです。何らかの枠組みがあってそれが悪くない枠組みなら、自然と受け入れてしまうなんていうことはよくあることなのではないでしょうか。

結局常識を超えて精神的に強い国はなかった、そんな当たり前のことを認め合っていくしかないです。



「世界史の構造」というかなりハードルの高い題名の本なのですが、柄谷行人が10年かけて書き下ろしたというだけあって読み応え十分です。世界の枠組みをこれほど大胆に語ったものというのはそうないのではないか。

この世界は、合理的な思考がある程度尊重されています。しきたりや人間の情念なんていうものは、この世界の眩い光にさらされて、溶けて世界のエネルギーになるのです。
私は岡山の田舎に生まれて、田舎のねっとりとした空気が大嫌いでした。私にまとわりつく全てのものが削ぎ落とされて、すがすがしい世界が現出すればいいのになんていつも思っていました。
今でもそうですよ。
より合理的な世界が来ればいいのに、なんて思っていたら、自分が年をとるにつれて世界は自分の望むようになってくるのです。この世界は少しづつでも進歩しているのだな、なんて思っていました。

どんな仕組みで世界は進歩しているのか、そもそもこの世界の仕組みとはなんなのか、さらに言えば、何故この世界は国家というものに覆われているのか、日本とはいったいなんなのか、太平洋戦争はなんだったのか。

私が昔不思議に思っていたのは、ほかの人はよくあんなに自信満々に日々生活できてるよな、ということです。この世界の構造が分からなければ、断言的なことは何もいえないのではないかと思ったのです。今考えてもこれは誠実な思考態度であったと思います。大人になって思うのは、彼らはこの世界の現状が鉄板だと思って、たいした考えもなく自信満々なふりをさせられてたのだということでしょう。
一つ例を挙げるなら、堀江モンは「自己責任」という言葉を口にしますよね。彼が自信満々に「自己責任」という時に根拠なんていうものはないのです。時代に言わされているに過ぎないのです。

この世界はそのような欺瞞があふれていてる。そしてそれを突き抜けて世界の構造を考えようという柄谷行人という人物に私は敬意を表します。「世界史の構造」という本を読む限り、柄谷行人の歴史哲学というものはかなりいいところまでいっているのではないかな。

「世界史の構造」という本がどれぐらいいいところまでいっているかというと、実際この本を読んでもらうしかないのですし、より詳細に研究しようとするなら、最低カント、ヘーゲル、マルクス、までは読み込まなくてはいけないですし。

まあ、ゆっくり読んでいこうかな思います。



戦中の総動員体制が日本社会を合理化して、それが戦後も継続して戦後日本を高度経済成長に導いたとしたらどうでしょう。

明治維新以降の日本は、より多くの日本人を国家システムの中に取り込んで、日本を巨大化させようという歴史だったと思いますが、どうしても取り残される人というのは存在します。権力に参画できた人間と取り残された人間との対立というものが存在しました。例えば、資本家と労働者とかいうものです。

取り残された人たちも文明開化の中で徐々に国家システムに参画するようになるのですが、そのことを決定的に推し進めたものが、満州事変以降の「国家総動員体制」です。

日本ファシズムというのは否定的なイメージがありますが、私はそれを肯定的に考えたいです。なぜなら、今まで社会的に必要とされなかった人たちが、必要とされるようになるわけですか。

想像してください。

今まで誰からも相手にされなかったような私。自分にどんな可能性があるのか、そんなことを考えることもできなかった。そんな自分に国家が語りかけてくれるのです。
「私が助けてやるから、あなたはあなたの戦場に行け」と

こういうことを「救われる」と言うんじゃないのかな。

戦後もこの総動員体制が巧妙に継続して、日本国民全てを巻き込み、そのエネルギーを吸い上げ、経済というものに注ぎ込んでいく。

そのような状況の中で、戦後左翼知識人は言うのです。
「階級闘争を再開しようではないか。私達のヨーロッパ風の物言いであなた達を自由にしてあげましょう」

うーん、これはボランティアの押し売りではないですか。開放されつつある民衆を総動員体制以前の状態に押し戻すものではないですか。

戦後リベラルの根拠というものは、太平洋戦争という悲劇を繰り返してはいけない、というスローガンにあったと思います。しかしこの論理があまりにも薄っぺらい。時が経つにつれて現実との乖離が大きくなってきます。当たり前ですよね、歴史的事実と異なる主張をしているわけですから。

私の父親は岡山の田舎で八百屋をやっていました。無口な人で、20年前に死にました。ただ選挙のたびにこう言うのです。
「社会党はやっちもねえ。あいつらの言うこたーわからんし、おれらのこともあいつらにはわからんじゃろう」

私は無知の父親というのがあまり好きではなかったですが、かれもそう間違った事を言っていたわけでもなかったのだと思います。



現代の日本のこの世界が、何故このようにあるのかと考えたことはないですか? 

大正デモクラシーまで日本は順調だったのですが、満州事変以降、日本は正規のルートから外れてファシズムに迷い込んだ。敗戦後は自由主義のレールに復帰して経済発展、そして今に至る。

というのが教科書的な歴史の論理なのですが、これってどことなくおかしくないですか。戦前の日本人は頭が足りなかったのか、狂気にとりつかれていたのか、どちらかという事になってしまいます。本当にそんなことがありえるのでしょうか。

明治維新は四民平等という理想を掲げましたが、実際に精神が解放された人々というのは下級士族まででしょう。何十年かの文明開化の後、大正デモクラシーや普通選挙の施行などで、自分で考え自分で行動するという「近代人」も徐々に増えてきたでしょう。
人間というのは強制されてやるよりも自発的にやる方がより多くのことができるのです。こんなものは気持ちの問題であって、自発的にやってると民衆に思わせることが出来さえすれば、国家としてのトータルの生産力は上がりますね。
階級社会であった戦前よりも、総動員体制であった戦中の方が民衆のエネルギーを引き出す仕組みというのが形成しやすくなるというのはあったと思います。国家自体が働きやすい環境をつくって民衆を誘導すればトータルで国家のプラスになるという合理的思考です。

例えば「年金」というのは戦中に始められました。働いた後の老後の生活が不安では、労働の効率が上がらないであろうという戦中総動員体制思考から、年金制度というのは生まれました。

全ての日本人が役に立つ、全ての日本人が開放される。戦中総動員体制というのは明治維新に始まる近代化のある種の到達点なのです。
このように便利で合理的なシステムを戦後、継続しないなんていうことはありえないですよね。国民全てのエネルギーを吸い上げようという合理的システムは、より巧妙になり現代にまで継続しているとこの本は言うのです。

それはそうでしょう。その辺りに真実はあるでしょう。

二二六事件に参加した湯川康平は、戦後このように語っています。

「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

湯川康平はほぼ真理をついていたのではないかな。




明治維新から太平洋戦争時の総動員体制までの歴史の流れというのは、国家が天皇制という形式の元に国民のエネルギーというものを出来るだけ吸い上げようとするものだったと思います。国家の手は一般の民衆にまで及んできました。

ここでいう民衆とはなんなのでしょうか。マスメディアではよく「庶民」という言葉を使いますよね。民衆とか庶民とかというものは漠然とした言葉であって、私なりに定義しなおするなら「都市部下層民」「ブルーカラー」ということになると思います。

ブルーカラーとはどのような人たちか知っていますか? 

昔魚屋だったという職場のおじいさんから聞いた話です。そのおじいさんの名前を仮に中島さんとしておきましょう。昭和60年ごろ中島さんは川崎小杉近くの魚屋で働いていました。魚屋のある同じ建屋に肉屋と八百屋も入っていて、当時このような形式の集合店舗を「ストアー」と呼んでいました。
小杉のストアーに入っていた肉屋は夫婦2人でやっていました。2人とも当時45歳くらいで、旦那はハゲ、奥さんはブス、中島さんが言うには、その奥さん、山田邦子を太らせたような感じだったそうです。その当時、周りには大きなスーパーが出来始めていて、ストアーの売り上げは落ち始めます。肉屋もそう。収入を補おうと、奥さんはスナックを始めます。中島さんも付き合いで、肉屋の奥さんが始めたスナックに何回か行ったそうです。すなわち肉屋の奥さんは、昼間はスッピンで肉屋を、夜は厚化粧をしてスナックを、です。
肉屋の旦那は、自分の奥さんに男が出来るのではないかと心配で、毎日奥さんのスナックに行って奥さんを監視するのです。
カツラをかぶって。
繰り返しますけど、その奥さんというのは45歳位で山田邦子を太らせたようなブスですよ。
中島さんはおかしくてしょうがないわけです。昼間は汗だくになって肉屋で働いている夫婦が、夜は、ブスの奥さんはスナックで厚化粧のママ、ハゲの旦那はカツラをかぶってカウンターの隅で奥さんの監視ですから。
結局、その夫婦はどうなったのかというと、なんとその奥さんに男が出来て離婚する事になったらしいです。

私は、この肉屋の夫婦を馬鹿にするつもりなんか全くなくて、逆に生活に対する貪欲さというものに感心します。

明治維新以降、日本という国家体制は、このようなブルーカラー的エネルギーを徐々に内側に抱え込む事により巨大化したのでしょう。巨大化しなければ、当時帝国主義と呼ばれていた近代世界システムの不条理の中で、日本は生き残っていく事が出来なかったのですから。
日本が具体的にどのようにして国家システムを巨大化させたのかというのは、私が「近代天皇像の形成」の1章から8章まで紹介してきたとおりです。



江戸時代中期以降、日本民衆の中で「通俗道徳」というものが発達してきます。「通俗道徳」は勤勉、倹約、正直、憐れみ、などの徳目から成り立っていて、この「通俗道徳」を守ることによって、村や家を次代に繋げていけると信じられていました。
この「通俗道徳」が地域社会で有効に機能するためには少なくとも2つの条件が必要です。1つ目は、村落や家の指導的役割を果たす人間が「通俗道徳」を厳守する事。2つ目は、村落指導者層に権威を付与するための体制的サポートが存在する事です。

明治14年に始まる松方デフレによって、農村地域は厳しい状況に立たされます。村落指導者層には村を維持するという使命感を持って伝統を実践した人も多かったでしょう。
私も日本人ですから、このあたりの感覚というのは分かります。
松方デフレ下、村落指導者層は「通俗道徳」を強化し、村の祭りとか習俗とかのハレ的要素を抑制しようとします。村の秩序を再構成するための権威の源泉として天皇制がよりどころとなりました。

天皇というものは、村落指導者層という国家と民衆の結節点であるところの者を最も拘束したのです。

ここで思い出すのは橘孝三郎です。
橘孝三郎は515事件に参加した民間人です。昭和初期、彼は、農本主義的、まあすなわち「通俗道徳」に秩序付けられたところの農場を立ち上げようとしていました。昭和初期のデフレで荒廃した農村を再生するためのモデルを作ろうとしていたのでしょう。そんな時、海軍の仕官に515事件の参加を要請されるのです。農本主義もいいが、社会の仕組みを変えることも農村を救う事になるのではないかと説得されたのです。橘孝三郎は、自分には妻も子供もいるし未来を託す農場もある、危ない話には参加したくない、と最初思ったそうです。しかし次の瞬間、かれは頭の奥で、

「卑怯者」

という声を聞きました。
橘孝三郎はこういっています。

「そして私は515事件に飛び込んだ」

農村指導者層の、村を維持しよう、日本を維持しようという、執念というか魂というかそんなものを感じます。農村指導者と天皇制は、互いが互いを必要としあうことにより成立していて、国家はそこから国民的エネルギーを調達しているのです。




日本において民俗行事や習俗に対する権力的規制は、17世紀ごろからありますが、本格化するのは明治維新以降です。

江戸時代、幕府の民衆に対する指導というのは村の指導者層にかなり依存していています。その結果、例えば、村の祭りなどにおいては若者組はできるだけ祭りを派手にしようとするし、指導者層は村の秩序を守るために若者組などのハレ的行動を抑えようとしていました。

明治政府は、この祭り等の民俗行事に手を突っ込んできます。明治5年、路上での放尿の禁止、裸体の禁止、道や川にゴミを捨てることの禁止、などが体系的に実施されます。さらに続いて祭礼的な民俗行事が禁止されます。
祭りなどは村の祭日であったりしたのですが、明治政府は祭日を国家的に統制しようとします。旧暦から新暦への移行というのにも、民衆を国家に統制しようという目的もあったのでしょう。

しかし民俗的なものを強制的に統制するということは、簡単な事ではないです。実際明治初期においては民衆の騒乱というものが全国的に起こりました。明治政府はこれを何とか乗り切ったわけですが、秩序が崩壊することなく明治国家が国家としての一体性を維持できた理由のひとつが、日本民衆の生き神信仰にあったでしょう。明治天皇は明治5年から明治18年まで積極的に地方巡幸をします。これは日本人の生き神信仰を考え合わせた、明治国家のアピール行動です。

以下の写真を見てください。
イメージ 1

これは昭和天皇の戦後における地方巡幸の写真ですが、日本人の生き神信仰が戦後も死んではいなかったということでしょう。

このようにして明治国家は日本の習俗を、あるときは利用しあるときは抑圧しながら、国民のエネルギーを国家に集め日本の一体性を維持することに成功しました。

このように一般民衆の視点で明治国家を考えれば、人によって明治国家の評価というものが分かれてくると思います。例えば、祭り好きの人にとっては明治国家は呪いしょう。イタコやこっくりさんなどのオカルトが好きな人は、明治国家、余計な事しやがって、と思うでしょう。

私なんかは、明治人は頑張ったなと感謝の気持ちです。



大日本帝国憲法第28条には

日本臣民は、安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、信教の自由を有する

と書かれています。「安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて」という微妙な文言こそありますが、明治国家には信教の自由は存在したと私は判断します。現代日本においてさえ反社会的な宗教集団に対しては、公安の監視がついて信教の自由が制限されうるわけですから、国家というものが存在する限り完全な信教の自由というものはありえません。

明治国家に信教の自由がまがりなりにも存在した歴史的経緯はどのようなものであったのでしょうか。

明治初頭においては神道を国教にしようとする動きが存在していました。しかしこの神道というものは各派で教義がバラバラらしいですよ。明治初年において統一神道を形成するためにかなりの議論がありました。ただしその内容というのが、高天原はどこにあるかとか、天照大神と高皇産霊神とはどちらが真の太陽か、だとか結論の出ようのないものでした。そんな議論を聞いていた木戸孝允とか大久保利通とかはあきれ返ったでしょうね。国家のための宗教なんだから神学論なんていうのは適当に切り上げてもらえないかと思ったでしょう。神道がそんなことをしている間に仏教側の反撃が始まります。
仏教側の主張というのは、
民衆を馴致するのは仏教に任せて欲しい、仏教には歴史的な積み重ねによる民衆からの信頼がある。さらにこれからの仏教は、仏教内部に抱える祈祷や卜占などの民俗的なものを切り捨て、近代日本の文明開化に貢献する用意がある、
というものです。これは明治政府首脳部には魅力的な意見だったと思います。
結果、廃仏毀釈なんていう政策は撤回され、国家神道は
「皇室歴代の祖宗、国家有功の名臣を祭りし」
と非宗教的なものに後退していきます。そしてそのトータルな結果が、大日本帝国憲法第28条信教の自由なわけです。

明治国家というと、明治初期と15年戦争時をつないで自由がなかったかのようなイメージも存在しますが、そうでもないのですよね。当たり前なのですが、日本には歴史の積み重ねによる多様な思考形態というのが、明治初期においてすでに存在していました。
多数の集団形態の共存、共存の枠組みである天皇制。生存のために、互いが互いを必要としているのです。それは自由の一つの形式であると思います。



前回は平田篤胤の国学について考えてみました。平田篤胤の思想が下から明治維新を支えたとするなら、水戸学は上から明治維新を規定したと言えると思います。

水戸学というのはそもそもが秩序の学問です。天皇-徳川幕府-外様大名-武士-一般民衆 という秩序を大事にしましょうというというものです。支配の正統性が薄い徳川幕府に対しての、御三家のひとつ水戸藩からの側面支援という事なのでしょう。

しかしこれ物事を簡単に考えすぎているところがあります。

徳川幕府に力がある間はいいですよ。しかしその力がなくなってくると秩序の枠組みが流動化してきます。天皇を重んじる事によって相対的に幕府を軽んじるという論理が成立します。さらに状況が進むと、天皇を重んじる振りをして状況を操作しようなんていう人間が現れてきます。

その代表的な人物が真木和泉(1813-1864)です。

真木和泉は久留米の神職の家に生まれます。始めは薩摩藩に接近して寺田屋事件で幽閉されると、その後は長州に接近。最後は禁門の変に参加して戦死します。真木和泉は極端な尊王論を展開しますが、未来の状況にたいして安易な予想を立てていたわけではなく、維新成就は「百敗一成の事」と自分で言っています。真木和泉の人生には、徒手空拳ながらよく歴史にいどんだ人間のマキャベリズム的凄みがあります。

真木和泉には世界に対して何らかの確信があったのでしょう。普通の人間は、マキャベリズム的に状況を操作しようとすればそのうち何が何だか分からなくなってきますよ。
真木和泉の「確信」がうらやましい。

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