magaminの雑記ブログ

2015年01月


文学というと小説の事なのでしょうが、現代小説なんていうのは読む気にならないです。世界観の枠組みが小さいのがイヤ。小さな幸せを集めて大きな幸せにしよう、なんていうリアルさが、返ってフィクション丸出しなのです。
しかしマンガやアニメの中には、話の枠組みがドデカイものが散見されます。これは大変好感の持てることです。

「鋼の錬金術師」は話の枠組みが大きいマンガの一つです。
舞台は近代ヨーロッパ風の大陸です。主人公はエルリック兄弟。兄は16,7歳の背が低く快活な青年です。弟は中が空洞の鎧の騎士で、喋ったり動いたりはできます。そして、序盤エルリック弟が何故鎧の騎士姿なのかということには一切説明がありません。
この兄弟は錬金術なるものを使う事ができるのです。序盤において錬金術とは何なのかという説明は一切ありません。
しかしだんだんと、この世界において錬金術とは、壊れた時計を直したり岩を変形させたりという、訓練によって身につく魔法のようなものであるということが明らかになります。錬金術を使うときには、魔方陣みたいな図柄が必要なのですが、エルリック兄はその図柄なしに錬金術が使えます。そしてまた何故エルリック兄が図柄なしに錬金術が使えるのかという説明はありません。
しかしだんだんとエルリック兄はこの錬金術世界の深淵にある「裁きの門」を見たが故に、魔方陣なしで錬金術を使う事が出来るようになったことが明らかになります。ただ「裁きの門」とは何なのかという説明は一切ありません。
しかしだんだんと・・・・・・

もういいでしょう。
このように、謎が解かれることによって、徐々にこの世界の全体像が、そして「裁きの門」の向こうの世界とこの世界と併せた世界の全体像が明らかになってくるのです。

ここまでくれば、物語を語っているのではなく、神話を語っていると言ってもいいでしょう。この壮大さ。つまらない現代小説を読むよりは鋼の錬金術師を読むほうが、よほど精神衛生上いいと思います。

驚くのが、このマンガの連載されていた雑誌が月刊少年ガンガンだということです。この月刊誌は小中学生がターゲットなのでしょう。このマンガの面白さを今の小中学生が理解できるというのがすごい。
最近の子供は文明の中で訓練されてあるのですね。





あの戦争とは誰もが望まない方向に政府が脱線していった結果なのでしょうか。

太平洋戦争が始まったときの、高村光太郎の詩を紹介します。

「真珠湾の日」

宣戦布告よりさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があったといふことだ
つひに太平洋で戦ふのだ
詔勅をきいてみぶるひした

この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかれられ
昨日は遠い昔となり
遠い昔が今となった

天皇あやふし
ただこの一語が
私の一切を決定した

子供の時のおぢいさんが
父が母がそこに居た
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた

私の耳は祖先の声でみたされ
陛下が、陛下がと
あへぐ意識はめくるめいた

身を捨てるほか今はない
陛下をまもらう
詩を捨てて詩を書かう


そして戦争が終わって、高村光太郎が書いた詩

「終戦」

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端座してふるへてゐた。

日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。

その時天皇はみづから進んで、
われ現人神にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。

再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。

不思議なほどの脱却のあとに
ただ人たるの愛がある。

雨過天晴の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。



この詩が書かれて70年以上経ちます。しかし、70年経っても、この詩は現代において強力な力を持っていると思います。丸山真男は「日本の思想」に、色川大吉は「明治の文化」にこの詩を引用しています。

あの戦争とは誰もが望まない方向に軍部が脱線していった結果と考えている人は、歴史を簡単に考えすぎています。現代の価値観で過去を裁くことは、注意深くやらなくてはいけない。高村光太郎の詩の向こう側に、私達の魂を投げ出すような感じで。





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