magaminの雑記ブログ

2014年11月

もう30年も昔の事です。中学生のころに安部公房の「砂の女」を読んで、えらく感動したのです。

「砂の女」のあらすじというのは、
砂丘近くの村で主人公の男が村人に拉致されるのです。そして砂丘と村の境目にある竪穴に監禁されて、砂を掻き出す仕事を強制されるのです。誰でもそんな奴隷みたいなことはいやですよね。ところが、まあそこで生活しろということでしょう、女を一人あてがわれるのです。それが砂の女。奴隷的境遇の男は、だんだんと狭い空間での女との生活に満足するようになるのです。で、最後は逃げられるチャンスがあったのに逃げなかったという話。

今から考えると、私は中学のころまで人間恐怖症みたいな感じで友達も少なく、女の子なんかとはほとんど喋れないような感じでした。今の言葉で言えばアスペですね。他人が何を考えているのか分からなくて、人との距離感がつかめないのです。とくに突然の悪意などに弱かったです。その後、陰性アスペは克服しました。他人はたいしたことを考えていいるわけではないということを悟りまして。相手の態度で機械的に自分の態度を決めることにしました。相手が高圧的だと自分も高圧的に、相手が謙虚だと自分も謙虚に。どうせ他人はたいしたことを考えてないのですから、この程度で十分なのです。でも気をつけてください。これをやるとチンピラみたいなやつとは睨み合いになります。でもどうせ相手の心は空っぽなのですから、何も怖くはないですが。

砂の女を読んで、女の子と喋った事もなかった私は、好きな女と狭い空間で寄添って生きるということに憧れました。
大学に入って私には彼女が出来たのです。私が行ったのは国立の上位校でしたし、体育会でバレーボールをやっていました。アスペと知らず近寄ってくる女性もないわけではないのです。こういうのは大事にしないといけない。基本的に女の子にはもてる気がしない上に、「砂の女」に憧れているわけですから。

で、そのまま出来ちゃった結婚です。

20年経って妻に言われるのは、
「アンタには騙された」
ということです。
でもこれ私には私の都合があったのと同様に、妻には妻の都合があったのではないでしょうか。妻の都合がどんなものであったかは知らないですよ。知りたくもないし知る必要もないです。
私、子供がすきなのです。砂の女と妻には感謝しています。
特に砂の女に。

関連記事





この本は、昭和18年に宮本常一の故郷である山口県大島における明治以降の記憶みたいなものを綴った本です。

私は岡山生まれで、いま川崎に住んでいるのですが、西日本が本当に懐かしい。

この本によると、昭和18年現在、日本農村共同体なるものも、文明の影響を受けてかなり解体されつつあったそうです。島に小学校が出来て子供が学校優先の生活になったり、経済体制が流動化して人の往来が激しくなり、村の伝統というものも維持しにくくなりつつあったのです。しかし大東亜戦争が始まり「非常時」ということになり、まあ日本全体が収縮して防御体制をとったと言うことなのでしょう、昭和18年の時点で、農村共同体なるものがかなり復活していたそうです。

日本的な共同体というものは、ある意味で人生をトータルとして非常に幸せにするものであるとは思います。子供には子供の仕事があり、青年になれば男ならば「若者組み」、女ならば「娘仲間」に所属し村の掟を習い、大人になれば村の一員としての役割をはたし、老いれば村の柱石となる。貧しいけれども死ぬまで仕事をし、必要とされる存在でいられるのです。
現代はどうでしょうか。
団塊の世代はどうするつもりなのか。会社に入ってそこが村社会で、定年まで幸せに働きました。しかし定年というのは運がよくても65なんですよね。村落共同体は死ぬまで個人を必要としてくれましたが、会社共同体は65歳までしか必要としてくれないのです。
朝早くに、スーパーの店先や街中の公園に老人の集会を見かけたりしたことはないでしょうか? あれは即席の共同体みたいなものです。あんなことで魂の空白を癒すことはできないでしょうね。結局、戦後農村共同体を拒否して個人の独立みたいなものを選択したわけですから、孤立した老後を生きるしかないのです。

しかし、一つだけ団塊世代が共同体願望を満たす方法があります。
それは戦争をするということです。
戦争になれば日本社会は収縮し、全ての日本人に日本人としての役割が振り分けられます。団塊世代には団塊世代の。やりがいのある社会に参加することが出来るのです。

もちろんこんな事を許してはダメ。やるべきことをやらなかった人間は、トータルとしてその責任を取るべきなのです。孤独の中で死んだからといって、誰を責めることも出来ないのです。

日本はどうなるんだろう。子供達に希望がありますように。



この橋川文三(1922-1983)は近代日本の研究家です。この人の本を二冊読みましたが、どちらも枠組みをものすごく大きくとって結局結論には辿り着かないというものです。

でも、そこがいいのです。

エヴァンゲリオンや進撃の巨人が面白いのと似たところがあります。ただエヴァや進撃はフィクションですが、日本近代というのはリアルですから。巨大な枠組みで近代日本を考えることほど、知的にスリリングな事はないです。

この「西郷隆盛紀行」ではもちろん西郷隆盛について書いています。しかしその話の枠組みがでかいのです。
第一
西郷は維新まえの何年か奄美大島や沖永良部島に島流しになります。そこで何らかのインスピレーションを得たのではないかと。鹿児島以南の島々や東北地方というのは日本というものに遅れて参加した地域です。この地域は日本でありながら日本に対して疎外感というものがあるらしいです。
第二
西郷が唱えた征韓論いったいなんなのか。西郷は一人朝鮮に乗り込んで死ぬつもりだった、というのが定説ですが、儒教の国というのは簡単に人は殺さないそうですよ。薩摩というのは江戸時代においても他の藩と違って琉球を通して世界とつながっていました。最低でも朝鮮と日本の近代史をシンクロさせる努力はしなくてはいけない。
第三
西郷隆盛を中江兆民、福沢諭吉、内村鑑三、徳富蘇峰などはどう見たか。
第四
西郷の征韓論なるものは朝鮮を侵略しようなんていうものではなく、ただ日本と朝鮮の当時ギクシャクした関係を東洋的な話し合いで解決しようとするものだった。その両者の話し合いが行われようとした矢先に、洋行していた明治国家首脳たちが帰国して、日朝間の東洋的話し合いを拒否して西洋的交渉に転換せしめた。それが江華島事件以降の日韓関係につながっていく。
この時の日韓関係が結局は、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争とつながっていくのです。

これらの要素をそれぞれ研究しこの全てを包括するような日本近代を説明する論理はないですか、と橋川文三は問うわけです。

すごい。こんな巨大な問題はないですよ。最近は中国や韓国を嫌いだなんていう人が多いみたいですが、そんなのばかばかしいですよ。みんなでこの巨大な問題を少しでも考えていく努力をした方が建設的なのではないでしょうか。



太字は本文です。


明治40年ごろでしょうか。その青年は伊予に戻ってまたばくろうを始めます。牛の取引の関係で、村の有力者である県会議員の家に出入りするようになります。家のことは女の仕事でしたから、その県会議員の嫁と知り合いになります。

ああいう女にはおうたことがなかった。色が白うてのう、ぽっちゃりして、品のええ、観音様のような人じゃった。

牛の事でその家に通っているうちに、県会議員の家で飼っている牛の種付けの話が出るのです。そして実際に種付けをします。牡牛は事が終わった後牝牛のお尻をなめるそうです。

おかたさまはジイッと牛の方を見ていなさる。そして
「牛の方が愛情が深いのかしら」
といいなさる。
「おかたさま、牛も人間もかわりありませんで。わしならいくらでもおかたさまの・・・」
おかたさまは何もいわいだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。

わしは納屋のワラのなかでおかたさまと寝た。

このおかたさまはこれから二年も立たないうちに肺炎でポックリ死んだそうです。その後青年はばくろうとしてあちらこちらを渡り歩きます。50の時に病気で目が見えなくなったそうです。おそらくなんらかの性病でしょう。盲目になって、昔のつれあいのところにもどります。その後30年以上、四万十川の上流に架かる橋の下で乞食生活です。

この盲目の乞食の独白はすばらしいものがあります。
こんな事をいうとなんなのですが、渡辺純一や辻仁成の文章はこの乞食の独白の足元にも及ばないです。なぜなら、渡辺純一や辻仁成の描く女は男から見た女だからです。乞食が描く女は女そのものだからです。

この物語には「落ち」があるのです。乞食が女にモテる秘訣をレクチャーしてくれるのです。

聞きたいですよね。

わしわなぁ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさだった。牛ちゅうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、あうと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけは嘘がつけだった。女も同じでかまいはしたがだましはしなかった。

牛も女も自分も同じ扱いなわけです。ここまでやらないと真の女は描けないわけですね。これは常人にはムリ。女を描いた日本文学は多いですが、おそらくこの四万十川の乞食がその最高峰でしょう。
辻仁成は女を描きたいなら、フランスに行くのではなく四万十川に行った方がいいね。


忘れられた日本人 (岩波文庫)

新品価格
¥864から
(2019/3/11 08:09時点)




関連記事/









忘れられた日本人」の本の中に、土佐の山奥に住む乞食の老人にインタビューしたものがあります。
これがすばらしいのです。
どうすばらしいのかというと、女を語らせたら川端康成より上、告白させたら太宰治より上、というものです。文学的に見ても出来がいいので、このインタビューは宮本常一の創作ではないのか、という噂があったぐらいです。

これを原文を交えて紹介していきましょう。太字は原文です。

この老人のインタビューは文庫本で30ページ、全編老人の独白形式になっています。
独白の時間は昭和30年くらいでしょうか。高知の山奥、四万十川に架かる橋の下に80を越えた乞食で盲目の老人は、60年連れ添っている老婆とともにみすぼらしい小屋に住んでいるのです。
この盲目で乞食の老人にも、もちろん若い時代はありました。生まれは伊予の喜多郡。土佐との国境に近いところです。ててなしごとして生まれ、村の枠組みからこぼれ落ちて、15の時から「ばくろう」の見習いとして働き始めます。「ばくろう」とは西日本においては牛を売り買いする職業を指します。ポジション的には農民の下、盗人の上ということらしいです。二十歳のころばくろうの親方が殺されて、この老人は二十歳にしてばくろうとして独り立ちするのです。明治35年ですね。殺された親方には妾がいたのですが、その妾はこの老人が引き継いだのです。妾には12才の娘がいて、二十歳のころの老人はこの娘と出来てしまうのです。

おっかあのねている間にものにしてしもうた。それからわしは娘をつれてにげた。雪のふる山をこえてはじめて伊予からここまできた
わしも一人前の人間になりたいとおもうた。

紙の原料になる木の売買をして3年ほど暮らしました。しかしその木を管理する役人の嫁さんに惚れてしまうのです。職業柄、その役人の家に出入りするようになるのです。

その嫁さんがええひとじゃった。眉の濃い、黒い目の大けえ、鼻筋の通った、気のやわらかな人でのお。

ドキドキしてきますね。

それでも相手は身分のある人じゃし、わしなんどにゆるす人ではないと思うとったが、つい手がふれたときに、わしが手をにぎったらふりはなしもしなかった。

秋じゃったのう。

この後、山の中腹にあるお堂の中であいびきをするのです。

「わしのようなもののいうことをどうしてきく気になりなさったか」
「あんたは心の優しいええ人じゃ、女はこういうものが一番ほしいんじゃ」

このあと何回かあいびきをしたのですが、老人は相手に迷惑がかかってはまずいと思い、一人で伊予に戻ったのだそうです。



続きはまた明日書きます。

つづき 
土佐源治 後半

忘れられた日本人 (岩波文庫)

新品価格
¥864から
(2019/3/11 08:09時点)


    
















宮本常一は山口県大島出身の民俗学者です。

第二次長州征伐のころの話もこの本にはのっています。第二次長州征伐を長州では四境戦争と呼ぶのですが、宮本常一のおじいさんの世代は武士以外の人間も四境戦争に多く参加し、この四境戦争はある意味祖国防衛戦争だったというのです。

そういわれればそうだよね。

第二次長州征伐のときの長州藩主は毛利敬親(もうりよしちか)です。毛利敬親という人物は、すべて家臣任せで家臣集団の中でヘゲモニーを握った集団を承認するという感じでした。
藩の主流を握ったところの代表者がしずしずと毛利敬親の前に進み出て、これからの長州藩の行動指針を毛利敬親に説明すると、毛利敬親は首をガクッと斜め前に折り、
「そうせい」
と一言いうそうです。ですから毛利敬親のあだなは「そうせい候」、言うなれば愛すべきバカ殿みたいなものです。
長州はこの毛利敬親の元で四境戦争を戦い抜き勝利するわけです。

これは明治国家の原型ではないでしょうか。山県有朋や伊藤博文は明治天皇を「そうせい候」として作り上げたのではないでしょうか。明治時代というのは、日本が西洋の圧力の中で独立というものを維持できるかどうかのギリギリの時です。明治の支配者層は四境戦争という祖国防衛戦争での成功体験を、明治国家に拡大して当てはめたのではないでしょうか。

明治国家における天皇は決断をしない。それは明治憲法における立憲君主制を忠実に実行した結果であるといわれたり、天皇制そのものの伝統であると言われたりしますが、案外毛利敬親に由来しているのではないのかな。

伝統といわれているものが、案外歴史が浅かったりすることは往々にしてあることです。




この本は明治26年成立、さらにこの本には鋭い思想の切れ味はありませんが、誠実な男の魂の遍歴みたいなものはあります。

内村鑑三は少年の頃から非常に信心深かかったそうです。神社の前を通るたびにお祈りをするのです。日本は八百万の神の国ですから、内村鑑三はしょっちゅうお祈りをしなくてはいけなかったのです。学校に行く時なんかはお祈りをしなくてもいいように神社のない道を通ったそうです。
しかし彼はキリスト教に出会います。キリスト教は一神教ですから、この宗教を新興すれば、彼は八百万の神に囲まれて絶えず祈らなければならないという脅迫感から解放されたわけです。

この誠実さははどうでしょう。
梶井基次郎の檸檬ですよ。

この魂そのままに、彼は北海道で学園生活を送り、アメリカに渡航して、そこで差別や善意をその誠実な魂に受け止めて、そして帰国するまでの物語が「余は如何にして基督信徒となりしや」となるわけです。

この本は英語で書かれたもので、はじめにアメリカで出版しましたが余り人気が出ず、10年後日露戦争で日本への関心高まっていたドイツでのドイツ語約でメジャーデビューみたいな感じだそうです。さらに日本語訳が出たのは昭和10年です。

岩波文庫の巻末をみると、1938年1刷りとなっています。2013年77刷りです。
ですから本文は英語からの日本語訳とはいえ、比較的重厚な日本語訳になっています。



内村鑑三の「代表的日本人」は明治27年発表です。
明治期の文語というのは、漢文調で読みにくかったりするのですが、この本は英語でかかれたものを日本語に訳したものなので非常に読みやすいです。

この本の内容というのは、5人の日本人(西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮) を紹介したものです。内村鑑三が日本人のすごい人たちの紹介を英語で書いて世界に発信したというわけです。日露戦争で日本が勝ったときには、ヨーロッパの日本に対する興味というのが高まって、この本かなり売れたそうですよ。

この本のリアルな内容というのは、まあ、あれですね、
小学校の図書館なんかに偉人の伝記みたいなのありましたよね、シュバイツァーとかエジソンとかヘレンケラーとか。なんというか、ねっとりとした物語というか。ざっくばらんに言ってしまえば、道徳なるものを無言で押し付けてくるような、そんな感じです。

内村鑑三というのは有名な人ですが、思想的には福沢諭吉や中江兆民よりは落ちるのではないでしょうか。福沢諭吉や中江兆民は民族のエネルギーということを問題にしましたが、内村鑑三は個人のエネルギーを問題にしています。
これは英雄主義です。精神の退化です。
歴史を個人に還元しようとすることは、歴史を簡単に考えてしまう態度につながってきます。例えばですよ、太平洋戦争での一番の悪人は東条英機ということになるでしょう。しかし東条英機の言行録というのを読んでみても、彼が異常人格者ということは言えないですよ。律儀で細かくてまじめな日本人という以外の判断は出来ません。

内村鑑三は1861年生まれです。明治維新の時には7歳ということになりますか。福沢諭吉や中江兆民のように明治維新のときに青年だった人間、すなわち一身にして二生を生きた人間より格が落ちるということなのでしょう。



驚くべき名作というものが日本文学の中に隠されていました。何者なのか、この中江兆民とは。

私はもう44歳です。読書歴というものも長いです。44年という限られた時間しかないわけですから、すべてのものを読むということはできませんが、西洋文学、日本文学、歴史、評論、哲学、漫画、とかなり幅広く読んできました。サリエリではないですが、何がすばらしいか何がつまらないか程度の判断は出来ると思います。
明治評論の質というものはかなり高いです。福沢諭吉の「文明論の概略」のすばらしさには驚きましたが、この中江兆民の「三酔人経綸問答」もすばらしいものがあります。

明治という時代は日本の独立が守れるかどうかというギリギリの時代で、それだけ当時の明治人もギリギリの時間を生きていたという事でしょう。

「三酔人経綸問答」は明治20年発表です。その中身を紹介しましょう。
登場人物は3人です。先生、紳士君、豪傑君、これだけです。
まず紳士君が長々と喋ります。文庫本で50ページ喋ります。
要約すると、
日本は小国であるから、富国強兵のような列強と伍していくなんていう政策はやめて、軍備を放棄し「自由、平等」という旗を高く掲げて道徳国家を目指すべきだ、
というものです。
この意見に対する豪傑君の主張がすごいのです。豪傑君という名前からして紳士君の意見に対して反対の主張をするのかと思いきや、それが微妙に違うのです。豪傑君は言うのです、
今の時代は「当たらし物好き」と「昔なつかしがり」の二種類の人間に分かれている。この二種類の人間集団がいる限り日本が一つにまとまるなんていうことはありえない。紳士君のような「当たらし物好き」人間は日本の本体である。豪傑君、つまり私のような「昔なつかしがり」人間は日本の癌である。日本はこの厳しい世界の中で独立なるものを維持するためには、その武威を世界に示さなくてはならない。戦争に勝てば勝ったでいいだろう。大陸に帝国の足場を築くことが出来る。負けたとしてもかまわないのだ、戦争で日本の癌である「昔なつかしがり」人間を一掃する事ができる。「昔なつかしがり」人間が一掃された時に、紳士君たちが日本を、自由と平等と平和の実験場にすればいい。

これはまったく大日本帝国の運命そのままです。さらに日本の現代は「自由と平等と平和の実験場」ということになりますか。

本当にかわいそうな日本。大陸の東の果ての、さらに海の向こうの島国。
日本に住んでみると、島国だなんて分からないのです。島と言ったって結構広いし。一つの文明圏みたいに考えてしまいがちなのです。しかし中江兆民は日本の辺境性みたいなものをその思想の中心に据えていたのかな。

まだよく分からないのですが。

三酔人経綸問答を読んだら、「カラマーゾフの兄弟」を思い出しました。イワンが紳士君ですね。豪傑君がドミートリー。先生がアリョーシャ。そう考えると、中江兆民はドストエフスキーにかなり肉薄しています。気になる人はカラマーゾフの兄弟と三酔人経綸問答を読み比べてみてください。




この「近時政論考」という本は、明治維新から明治20年ごろまでの政治的主張の歴史と、それを踏まえての陸羯南自らの政治的主張(国民論派というらしいですが)が書いてあります。陸羯南にとっては自分の政治的主張がメインでしょうが、私が注目したいのは前半の政治論史です。

陸羯南は明治維新を自由主義革命であると定義します。明治新政府は基本的に革新政府なのです。その革新政府が帝政論派と自由論派に分裂するのです。
天皇を中心として日本国の統一というものを重視するのが帝政論派で中心は伊藤博文です。
国民の自由平等を重視するのが自由論派で中心は板垣退助です。
すなわち帝政論派と自由論派は同じ明治維新から生まれてきているわけです。

明治維新から何年か経って「改進論派」なるものが生まれてきます。改進論派とは帝政論派と自由論派の中間みたいなもので、権威よりも富を、平等よりも自由を重視します。改進論派の中心は大隈重信です。陸羯南は改進論派は貴族主義であると喝破します。

ここからは私の仮説なのですが、昭和の初期にヘゲモニーを握っていたのは改進論派の末裔なのではないでしょうか。西園寺公望、牧野伸顕は大隈重信の後継者だったのではないでしょうか。昭和初期の騒乱というのは、改進論派から帝政論派と自由論派が連合してヘゲモニーを奪い返そうとする争いの結果なのではないでしょうか。
結局、昭和の改進論派は太平洋戦争の敗戦でほとんど消えてしまいました。大日本帝国は明治維新からのエネルギーによって押し流されてしまったのですか。

これをさらに現代にひきつけてみましょうか。いま新自由主義みたいな考えを表明する人がいます。能力のある人はグローバルに稼いで、その他大勢の日本人の賃金は新興国の賃金に近づいていってもしょうがないというものです。これは改進論派の議論です。これを何十年にもわたって固定化すると、この社会は貴族主義になります。危ないのではないでしょうか。全てを押し流す人民の波がまたやってくるのではないでしょうか。とくに日本には「天皇」という一筋の血路がありますから。

このページのトップヘ