magaminの雑記ブログ

2014年09月

福沢諭吉「文明論の概略」という本は刺激的な思想に満ち溢れて、なおかつそれが体系をなしているという、日本文芸史上一頭地を抜くものがあるのではないでしょうか。

その刺激的な思想の中から一つを紹介しましょう。

明治維新というのはなんだったのでしょうか。福沢諭吉はこのように言います。
徳川幕府による長い太平によって、日本人は徐々に智恵や道徳という人間本来に備わっている特性を育てる事ができた。しかしいかに智恵や道徳を育てても、きっちりと枠組みの決まった封建時代においては、その智徳をそとに発することが出来にくかった。水戸学や国学は封建の枠をすり抜けてそとに現れた、ある種智徳の実体である。時代が進み、ペリー来航以降になると、日本人の智徳は「尊皇攘夷」というものを先端として、徳川封建制を崩壊させるにいたった。しかしそもそも「尊皇攘夷」なんていうものは、封建制を倒すための一つの口実、便宜的なスローガンみたいなもので、取替え可能。ひとたび維新が実現されれば、攘夷転じて開国となったわけ。

こんな論理、聞いたことあります? 高杉晋作とか大久保利通とかという固有名詞は一切捨象して、日本人の智徳の総量のみを問題としているのです。

ではこの福沢維新理論を昭和初期の日本に当てはめてみましょう。
昭和初期、それまでの出版の自由や議会政治制度により日本人の智徳が増大して、明治的封建制は根底を揺さぶられる。日本人の智徳は「一君万民」をというものを先端として、明治国家を自滅の戦争に押しやった。しかしそもそも「一君万民」なんていうものは、明治国家を倒すための一つの口実であって取替え可能。「一君万民」転じて開国となる。

太平洋戦争の原因というのは専門家においてもまだ定説がないそうです。しかし福沢諭吉の論理を当てはめれば、日本人が自らを変革するためにワザと自国を真珠湾に突き落としたという事になります。

こんな論理、聞いたことあります?

私、何年も戦前の昭和について考えてきましたが、この福沢諭吉理論というのは、かなり魅力的であると考えます。ただ細部はかなり詰める必要があるでしょうが。


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北朝鮮は何であんなにイコジになって引きこもりみたいになっているのでしょうか。中国が改革開放をやった時に北朝鮮も一緒にやればよかったのに。こんなになってしまったら尋常な手段では北朝鮮の人たちが解放されるなんてことはありえないです。北朝鮮内で自由化なんていうヌルイことを言っていたのでは、いつまでたっても何も変わらないでしょう。

ではどうするか。

北朝鮮内で反米反韓反中というのを煽るのです。自由化というのと逆の主張をするのです。キムなんとかっていう首領様の絶対正義を主張して返す刀で鬼畜米中韓といことを主張しまくるのです。わが国の指導者層は首領様に対する忠誠が足りないと突き上げまくるのです。北朝鮮首脳部は下から煽られて最後は半狂乱になり韓国に攻めて来るでしょう。北朝鮮は国力がアレなのですぐ負けます。負ければ北朝鮮の指導層は一掃され、人民は解放されるわけです。
このやり方はかなりの犠牲が出ます。指導者層の何人かは、米中の連合国に戦犯とかいわれて処刑されるでしょう。北朝鮮の軍部は悪の象徴として、全ての罪を背負わされ解体されるでしょう。しかし何十年後かの国民の自由と平和のためには、ある程度の犠牲はしょうがないところではないでしょうか。



私はこれを

     「真珠湾方式」

と名づけます。

福沢諭吉が「文明論の概略」の緒言を書いたのは、明治7年です。

明治維新を境に日本社会は劇的に変わります。日本はその後太平洋戦争の敗戦でもう一度社会の変革を体験します。

山田風太郎という作家がいます。彼が戦前戦後と生きて感じることは、
「二つの世界を生きている」
ということだそうです。戦後の繁栄した日本にいても、この繁栄はいつまで続くのか、いつも疑問に思うそうです。ファンタジーなんかでよくありますよね、別世界でまた別の人生を生きるみたいなのが。私は団塊ジュニアの世代ですが、私達のおじいさんの世代は、ファンタジーではなく現実に一生で二つの世界を生きた、と感じた人たちが多くいたであろうと推測します。

明治維新もあの昭和20年と同じで変革の秋です。明治維新の前後を生きた人も二つの人生を生きたと感じた人が多かったのではないでしょうか。

福沢諭吉のすごいところは、多くの人がなんとなく思うところを、明確に意識しているというところです。福沢諭吉は、文明論の概略 緒言の中で、

「我国の洋学者流、あたかも一身にして二生を経るがごとく、一人にして両身あるが如し」

といいます。この言葉だけでも驚くべき発言なのですが、さらに続けて、

「今の日本人は江戸と明治の二つの世界を体験として知っている。だから西洋と日本とを意識的に較べることが出来る。西洋人は西洋しか知らない。意識的であるという点で、現在の日本人は西洋人より有利である。この点は一世を過ぎれば再び得ることは出来ないので、今の時は大切な好機会である」

時代の変わり目をこれほど明確な言葉で認識するとは驚くほかはないです。明治維新後の日本の躍進、太平洋戦争後の日本の発展も、二つの世界を生きた人たちが、その有利さを生かして何かを成し遂げた結果なのだと思います。

「文明論の概略」という本は刺激的な思想に満ち溢れて、なおかつそれが体系をなしているという、日本文芸史上一頭地を抜くものがあるのではないでしょうか。

その刺激的な思想の中から一つを紹介しましょう。

明治維新というのはなんだったのでしょうか。福沢諭吉はこのように言います。

徳川幕府による長い太平によって、日本人は徐々に智恵や道徳という人間本来に備わっている特性を育てる事ができた。しかしいかに智恵や道徳を育てても、きっちりと枠組みの決まった封建時代においては、その智徳をそとに発することが出来にくかった。水戸学や国学は封建の枠をすり抜けてそとに現れた、ある種智徳の実体である。時代が進み、ペリー来航以降になると、日本人の智徳は「尊皇攘夷」というものを先端として、徳川封建制を崩壊させるにいたった。しかしそもそも「尊皇攘夷」なんていうものは、封建制を倒すための一つの口実、便宜的なスローガンみたいなもので、取替え可能。ひとたび維新が実現されれば、攘夷転じて開国となったという。

高杉晋作とか大久保利通とかという固有名詞は一切捨象して、日本人の智徳の総量のみを問題としているのです。

ではこの福沢維新理論を昭和初期の日本に当てはめてみましょう。
昭和初期、それまでの出版の自由や議会政治制度により日本人の智徳が増大して、明治的封建制は根底を揺さぶられる。日本人の智徳は「一君万民」をというものを先端として、明治国家を自滅の戦争に押しやった。しかしそもそも「一君万民」なんていうものは、明治国家を倒すための一つの口実であって取替え可能。「一君万民」転じて開国となる。

太平洋戦争の原因というのは専門家においてもまだ定説がないそうです。しかし福沢諭吉の論理を当てはめれば、日本人が自らを変革するためにワザと自国を真珠湾に突き落としたという事になります。

福沢諭吉の明治維新理論というのは、日本人の知徳が増加した事によって今までの日本社会の枠組みが日本人にとって窮屈になった結果だ、というものです。明治維新を導いた人たちは誰かというと、「知徳ありて銭なきひと」となります。

太平洋戦争の敗戦は、明治維新と同じように戦前の日本社会の枠組みを壊し、日本人を解放する結果となりました。太平洋戦争は明治維新とパラレルになっているのではないでしょうか。太平洋戦争を福沢諭吉的に考えると、大正デモクラシー、議会制の存在、出版の発達により日本人の知徳が増加して、日本人にとって日本社会の枠組みが窮屈になり、そのことによる現状に対する不満が、日本の変革を目的として日本を太平洋戦争に突き落とした、ということになります。そして太平洋戦争を主導した人は「知徳ありて銭なきひと」ということになります。

明治維新において「知徳ありて銭なきひと」というのは下級武士でした。では戦前の昭和において「知徳ありて銭なきひと」とは誰だったのでしょうか。

官僚それも革新官僚といわれる人たち、下級将校、新聞社の下層部、このあたりではないでしょうか。このような人たちが、いろいろなやり方で貴族院、財閥、重臣、地主、などを煽り倒して結局自滅の戦争にいたるわけです。

現状に不満で自由を求めているのに、尊皇攘夷のような逆の主張をして現状を打破しようとする。結局それがうまくいくものだから、後から考えて何がなんだか分からなくなる。そういうことではないでしょうか。

新聞が、戦前は戦争を散々煽っておきながら、戦後は一転反戦に転換するのも「予定の行動」とも考えられます。もちろん彼らが意識してそのような行動をとったとは考えにくいですが、うすうすは気がついていた人もいたのではないでしょうか。

気がついていても死ぬまで言えないよね。日本を解放するためとはいえ日本人が300万人も死んだんだのですから。


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「学問のすすめ」は文明や理性を語るだけではなく、人間の心理構造すなわち実存的なことも語っています。

この本の中で、人間の最悪の不徳は「怨望」であるといっています。怨望とは人を恨むということですね。その怨望は、社会が個人の、上に向かって自由に発言する働きを抑圧した時に民衆の中に蔓延するものであるといいます。
民衆の中に怨望が蔓延すれば、心の中に嫉妬、恐怖、卑怯なるものがあらわれ、それが内計として密話、内談、秘計としてあらわれ、それが外形に破裂するところは、徒党、暗殺、内乱、ということになります。

いまこの福沢諭吉の実存理論に従って、日本の戦前を考えてみましょう。515や226の内乱や血盟団の暗殺の前には何らかの社会的な「怨望」状態があったことが推測されます。その「怨望」状態の原因というのは、政府が個人の、上に向かって自由に発言する働きを抑圧したことにあるわけです。それで具体的な事件をさかのぼって考えると、幸徳秋水事件が最初の大きいものではないでしょうか。当時の明治政府(具体的には山県有朋でしょう)は、一人のアナーキストをなぜそんなに怖がったのか。磐石の態勢を望んでいたのでしょうが、死刑をもって無理に言論を弾圧するから、最後はあんな戦争になってしまう。
福沢諭吉の論理を応用すると、太平洋戦争の原因は以上のようにも考えられるわけです。

このように福沢諭吉の語る人間心理というものは注目に値します。人間精神の上部構造(l理性)と下部構造(社会的心理構造)を両方語るなんていう人は、歴史上を探してもそうはいないものです。こういう人物は社会の変動時にのみ現れる精神の巨人なのです。福沢諭吉が読めるということは、日本人にとってとても幸せな事だと思います。

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福沢諭吉は1835年大坂生まれ、現在の大分県中津市育ち。

福沢諭吉は子供のころ、福沢は神社のご神体はなんだろうかと思って社を開けてみた。石が入っていたから「なんだこんな石」とこれをうっちゃって、その辺の石を拾って入れておいた。まもなく祭りになって福沢は

「馬鹿め、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い」

と、ひとり嬉しがっていたという。
まったく、とんでもない悪ガキだ。

二十歳で大坂の蘭学者・緒方洪庵の適塾に入る。天才ぶりを発揮してたちまち塾頭になる。福沢の適塾での態度というのは、

「私は本気で朋友と争ったことはない。赤穂浪士が義士か不義士かの議論が始まったとする。すると私は、どちらでもよろしい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする。君が不義士と言えば僕は義士にしてみせよう、というもので、実の入った議論をしたことは決してない」

というものだった。なかなかここまでは言えないと思うよ。確かなものにすがりたいと誰もが考える。学歴、職歴、知人、有名人、寄りかかれば安心決定のやすらぎってある。ところが、義不義、口の先で自由自在って、さすが福沢だよな。独立不羈ここに極まれりだろう。

福沢の師である緒方洪庵が文久3年6月に死去する。適塾仲間が通夜に集まる。そこでの福沢と大村益次郎との会話が非常に興味深い。大村益次郎とは長州藩出身で明治維新の殊勲者。現在でも靖国神社の正面入り口ど真ん中にでかでかと大村益次郎の銅像が建っている。
「おい大村君、君はいつ長州から帰ってきたか」
「この間帰った」
「どうだ馬関(下関)では大変なことをやったじゃないか(下関戦争)。何をするのか気狂いどもが、あきれ返った話じゃないか」
「気狂いとはなんだ、けしからんことを言うな。長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴ばらにわがままをされてたまるものか。これを打ち払うのは当然だ。もう防長の士民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ」
というその剣幕は以前の大村ではない。攘夷の仮面を冠っているのか本当に攘夷主義になったのか知りませんが、他の者は一時彼に驚かされてそのままソーッと棄てておいたことがあります。
福沢諭吉と大村益次郎の巨人対決だから、どんな議論が戦わされたのかと思ったら、すがすがしいほどのざっくばらんぶりだ。
福沢が語ると、なんだか不思議なクラスメート感が立ちのぼる。学級委員長に同じクラスメートじゃないかと諭されているような、ナショナリズムというのではなくクラスメーティズム的な感じで同じ日本人じゃないかと言われている感じがする。

1868年の江戸無血開城前夜の様子について、福沢諭吉はこのように語る。

江戸城内において福沢
「いや加藤君、今日はカミシモまで着て何事か」
加藤君というのは加藤弘之のこと。明治に入り東京帝国大学第二代総長を務めた有名人。
「何事だって、慶喜公にお逢いを願う」
「今度の一件はどうなるだろう。いよいよ戦争になるか、ならないか、君達にはたいてい分かるだろうから、どうぞそれを僕に知らせてくれたまえ」
「それを聞いてなににするか」
「何にするかって、分かっているではないか。これがいよいよ戦争に決まれば僕は荷物をこしらえて逃げなくてはならぬ」
といったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。

だって。さらにこの後が面白い。

江戸無血開城について
「全体をいうと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許すわけがない。すぐ一刀の下に首がなくなるはずだけれども、これがいわゆる幕末の形勢で、とても本式に戦争などのできる人気でなかった」

徳川慶喜が抵抗を諦めたのは、このような雰囲気を察知したからだろうというのが真実なのかな。

明治10年代の自由民権運動についての福沢の認識。
「ひとを捕らえて牢に入れたり東京の外に追い出したり、まだそれでも足らずに、役人達は昔の大名公卿の真似をして華族になって、これみよがしに空威張りをやっているから、天下の人はますます腹を立てて暴れまわる」

だって。自由民権運動についての有力な見識だろう。このような福沢的な優しい日本社会に対するまなざしが、現代日本にまだあると信じたい。

この世界を生きるにおいて、生きる意味を考えることもあるだろう。意味があるのかないのか。意味なんてないのではないか。虚無に落ち込むということもありえる。
そして、福沢は最後にこのように語る。

「人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞くところではあるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」

福沢は、この書を記した後2年ほどたたった、明治34年(1901年)1月25日に脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。


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ツカダグローバル(旧ベストブライダル)はブライダル業界第3位。地殻変動が続くブライダル業界における新興企業の先頭を走っているような感じです。

ツカダグローバルには株主優待があって、100株(95400円)で半期に一度、500円のクオカードと、ツカダグローバルが経営するレストランかホテルの割引券が一枚です。私は昨日この割引券を実際に使って、ツカダグローバルの展開するコンチネンタルホテル東京ベイに行ってきました。

このコンチネンタルホテル東京ベイは、部屋のランクが、クラブ、エグゼクティブ、ノーマルの三つに分かれていて、実際に私が泊まったのは、一番ランクが上の「クラブ」です。このクラブを正規に予約すると、いろんなプランがあるのですが、だいたい平日だと一室二名一室あたり38000円、休日の前日は49000円です。優待券を利用するとこれが一律30000円(消費税込み)です。この「クラブ」には特別ラウンジにおいてビュフェ形式の、アフタヌーンティー、夕食、朝食がついています。

びっくりしたのは、小学生以下の子供は添い寝の場合、夕食朝食がつくにもかかわらず完全無料です。私は中学生の長女と小学生の次男、5歳の次女の4人(妻と長男は留守番)で泊まりましたが、30000円と宿泊税の200円、合わせて30200円以外お金はかかりませんでした。小学生未満無料というのはありえますが、小学生以下無料というのは珍しいのではないでしょうか。子供に優しいコンチネンタル東京ベイです。ですから「クラブ」ランクの宿泊客には子供連れが非常に多かったです。3割が子供連れ、2割が40台以下のカップル、2割がシニアのカップル、2割が外国人、その他1割、そんな感じではなかったでしょうか。ですから最上ランクのラウンジにもかかわらず食事の時に子供がうるさいということはありえます。

コンチネンタルホテル東京ベイのスタンスというのは、高級ホテルの雰囲気を一般の人たちにも味わってもらおうということだと思います。これは保守的なホテルマンにとっては、あまりいい気分がしない方針ではあるでしょう。しかしホテルが生き残る一つの方法ですね。

ツカダグローバル恐るべし

大岡昇平の「レイテ戦記」を中学生のころ読んだ覚えがあります。

大岡昇平の語ることというのは、今の世相から見ればかなり左よりです。靖国神社には否定的ですし、反核というのも明確です。日本の防衛費はGDP比1%死守(なつかしい)とも言っています。

今では空虚な事になりつつある事でも、太平洋戦争においてフィリピンで実際に戦ったという経験のある大岡昇平が語ると、リベラルな空虚話もぐっと真実味が増してきます。

「人類は二つの世界大戦を経験してのだから、もうそんなことをする必要がないというのが私の立場だ。先日自衛隊員が演習するところを見た。その演習ぶりはなっちゃいなかった。備えの必要があるのなら、もっとちゃんとやらなくてはダメだ。兵士自身に危険が残るだけである」

このような戦争を体験した人が、戦後日本の重石となっていたのでしょう。あの戦争から70年。そういう重石も外れて、リベラルは空っぽになってしまった。

戦争世代には実体があった。私が子供のころ、おじいさんの言葉というのは重みがありました。私は団塊ジュニアの世代ですが、戦争世代ー団塊世代ー団塊ジュニア、という序列の中に大人の世界を見ていました。この序列の中を大きくなって僕は大人というものになるのか、と私は思っていました。
でも現実は違う。戦争世代には戦争によって何らかの力が付与されていたのです。団塊世代の言葉はいつまでたっても、かつての親のように重くはならないし、団塊ジュニアはいつまでたっても序列の階段を上れず、大人になった気がしない。

大岡昇平を30年ぶりに読んで、本当に感動した。



近衛上奏文とは、太平洋戦争終戦間際に歴代の総理大臣が一人ひとり天皇の前に呼ばれた時に、近衛文麿が天皇に
何で日本はこんな事になったのか
みたいな事の私見を報告したものです。

その内容というのをザックリ要約すると、
この戦争は共産主義者の陰謀。陸軍に紛れ込んだ共産主義者が、擬似共産主義である統制経済を推進している
というものです。

普通に考えれば、近衛は終戦間際にして妄想にとらわれていると言うところです。陰謀史観が好きな、物事を簡単に考えがちな人は、近衛上奏文を補強するような材料を無理やり引っ張ってくることでしょう。

勝田龍夫が当時内大臣であった木戸幸一に近衛上奏文についてインタビューしたところによると、木戸は
「近衛は共産革命を心配しているようだったが、私はそうでもなかった」
ひどくあっさりしたものです。

近衛は当時陸軍の皇道派と近く、一人一殺の井上日召も近衛邸に出入りしていた「!」そうです。この皇道派に利用されたか、もしくは皇道派を利用して統制派が牛耳る陸軍を抑えるためか、おそらくその両方だと思いますが、この近衛上奏文で統制派を牽制して終戦工作をしようということだったのでしょう。政治の筋としてはあまりいいものだったとは思わないですが、彼は彼なりに一生懸命だったのです。近衛文麿は明治以降の最低の総理大臣だという評価もありますが、そうでもないでしょう。彼なりに命をかけて出来る限りのことをしようとした時もあったわけですから。
もっとどうしようもない総理大臣もいたのではないでしょうか。例えばあの人とか、エーほかにあの人とか。

現代がなんなのかというと、世界を覆っていた巨大な物語が崩れていく時代と言う事でしょうね。

19世紀の後半においては、列強の国々から同列の強国と認められないと、国際社会において何らかの意見を主張することは出来ないという時代でした。実際、大使というものを交換するのは列強同士のことで、列強以外の国とは公使という一段下がった使節を交換していました。日本は明治維新後、必死の努力で列強の一角に食い込みました。

世界をヨーロッパ発の巨大な物語が支配していたのです。その物語は民主主義や科学や理性などで構成されています。日本には日本の物語があっていいと思いますが、しかし当時このヨーロッパ発の巨大な物語を受け入れなければ、日本を世界に主張することは出来なかったのです。

西園寺公望は戦前日本が日中戦争の泥沼にはまり込もうとしていた時こういいました
「日本は英米の後をどこまでも付いて行かなくてはいけない。付いていっているからこそ、日本は世界を決定する仕組みの柄の一つを握ることができる」

西園寺公望の考えの中に、世界を覆う巨大な物語が前提としてあるわけです。

しかしその巨大な物語も、第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦の崩壊、によって現代においてはかなり崩れてきています。そのような流れからすれば、日本の太平洋戦争は、日本が巨大な物語から離脱しようとした結果とも考えられますし、戦後の平和憲法というのは巨大な物語への復帰とも考えられます。とするなら、今の朝日叩きというのは、巨大な物語からの離脱の傾向を表しているのではないでしょうか。

今日本に必要なのは日本の物語を作ることだと思います。ただ戦前の皇国史観みたいなものはお断りです。ある程度リアルな物語ではないと。
永井荷風はその日記の中で
「元来日本人は理想なく強きものに従いその日その日を気楽に送ることを第一となすなり」
と言っていますが、まあこのあたりから日本人の物語というを始めればいいのではないかと思います。

池田さんは最近「朝日」たたきに忙しいですね。

従軍慰安婦の問題というのは私達と歴史をつなぐ問題だと思います。朝日の断末魔は戦後日本の断末魔です。
朝日の論理はアメリカに守られている限り安全な論理なのです。新興国の力が強くなり相対的にアメリカの力が弱くなった時代に、日本はどうするのかと問われているのだと思います。

もし日本が太平洋戦争をしなかったとしたらどうでしょうか。あの戦争はある種の必然です。日本がとりえた可能性として遡って考えるなら、明治維新が失敗して他のアジアの国々のように、日本も欧米の半植民地となっていたらどうでしょうか。日本は第二次世界大戦後に欧米の支配から解放されて、今頃は新興国のトップを走っているという感じではないでしょうか。

21世紀、経済発展著しい新興日本

ああ、そんなのはイヤだ。今の世界のほうがいい。
大日本帝国の日本人達は、私達に世界について考える材料とチャンスをくれたと思うのです。日本人の先人達は、私達を歴史の高みに押し上げた。池田さんは自分なりにそれを生かそうとしているのではないでしょうか。

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