magaminの雑記ブログ

2014年07月

孟子の特徴というべきものに革命を容認した、ということがあります。儒教というものは社会の秩序を重視しますから、この孟子の革命思想は儒教の中で特異な光芒を放っています。
では具体的に「孟子」の中から、その革命思想を表明した部分を見てみましょう。

梁惠王下の第8章に
斉の宣王が孟子にこう聞きます
「臣下が君主を殺すということは、みとめられますか」
孟子、答えて
「君主は人望があるから君主でありえるのであって、人望を失った君主は君主ではなくタダの人。タダの人を殺したからといって何の問題もありません」

孟子の時代は紀元前300年戦国時代なのですが、その前にすでに、春秋時代、周、殷、夏、と中国の支配者は変わっています。さらに斉という国は、この斉の宣王の父親の時に今までの斉の王様を追い出して、まあ要するに簒奪されたわけです。

これ、春秋戦国時代をよく知らない人にはめんどくさい知識のように思えるかもしれませんが、一応この時代の常識となっています。

孟子の革命思想とは、孟子の論理体系から必然的に導き出されたものではなく、孟子が斉の王様におもねた結果と言うべきものです。孟子の気持ちはよく分かります。斉の宣王の前で、臣下が君主を殺してはいけない、なんて言いにくいですよね。宣王の父親が臣下としてその君主を殺しているわけですから。

で、これに対して我らの吉田松陰はどう解説したかと言うと、

「中国と日本とは違う」

うん、これ。
中国では革命が何度も起こったかもしれないが、日本は天皇が末永く守られた国、一度も革命なんて起こったことがない。だから孟子の革命思想は日本には関係ない。

完全に右から左です。

松蔭は、孟子を無条件に信仰しているというわけではなさそうです。



講孟箚記とは吉田松陰が牢屋に入れられたとき、その囚人仲間に「孟子」を解説したものです。

孟子という人は中国の戦国時代(だいたい紀元前400年から200年くらいまで)の人です。中国の戦国時代には七つの大きな国があって、西から、秦、趙、韓、魏、斉、南に楚、北に燕、となります。

これ、めんどくさいようですが、いちおう戦国時代の常識です。

で、題名にある「梁惠王」というのは、梁(りょう)という国の惠という王様のことです。梁というのは七つの大きな国の一つである「魏」という国のの別名です。めんどくさっ、と思った方。戦国時代のマイナールールと思って我慢してください。

「孟子」という書物は、孟子と梁の惠王との会話から始まります。
梁の惠王は孟子に、
「孟子さん、遠いところを私の国までよく来てくれました。わざわざ来てくれたということは、私のこの魏の国の利益になる何かすばらしいアイデアを持ってきてくれたんですよね?」

千里を遠しとせずして来る。また将にもってわが国を利することあらんとするか

孟子は答えます。
「王様というものは、利益というものを期待してはいけません。ただ、仁義のことだけをお気にかけていらっしゃればよろしいのです。

王なんぞ必ずしも利をいわん。ただ仁義あるのみ

この会話を普通に判断すればどうでしょう。孟子はわざわざ遠くから魏まで来ているわけです。それを王様も知っている。弱肉強食の戦国時代、仁義だけで国を維持できるわけないのは、当たり前の話。。仁義の後ろに利益がチラチラ見える気がします。

これを吉田松陰が解説します。
まず松蔭は、
「仁義を実行した後、利益は期待できる」
といいます。ここまでは普通です。しかし、松蔭はさらにこれを押していって、
「仁義を実行した後、利益は自然と期待できる。だから仁義さえ実行すればいい」
といいいます。さらにこれを押して、
「仁義さえ実行すれば、利益なんて考える必要はない」
という境地にまでいたります。

最終的には感動的でさえあります。松蔭はこういいます。
「私達は今、再びこの牢獄から出るという希望のない状況にある。この状況で孟子を学んでなんに成るのであろうか。
しかし、その考えこそ孟子のいう「利」の考えなのだ。
努力によって正しい道を知ることが出たのなら、それは喜ばしい事であり、実行の効果を考えることなど、問題にならない」
さらに幕末の状況にひきつけて、
「ペリーに対する幕府の態度はまことに恥ずかしい。幕府には必勝の覚悟がないからだ。さらにいえば、その幕府の態度こそが「利」の態度なのだ。日本はただ仁義のみを実行すればいい」

吉田松陰は完全に孟子を越えています。その精神は、ほとんど狂気と熱情の間にある。
全てが最高だ。





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講孟箚記は吉田松陰が獄中にあったとき、獄仲間に「孟子」を講義したものです。
これを実際に読んでみると、吉田松陰の博覧強記ぶり、その言葉の誠実さ、その魂の清廉な様、全てがすばらしい。こんな本が実際にあるんですね。


「至誠にして動かされざるものは、未だこれあらざるなり」
まごころが本当にこもっていれば、動かされない人があるはずがない。

これは「孟子」のなかの言葉なのですが、吉田松陰は松下村塾の門人にこの言葉を残し江戸に連行され処刑されます。この吉田松陰の「まごころ」なるものが、高杉晋作や伊藤博文や、さらに長州の在野の人々を突き動かす事によって明治維新は成りました。
まさに、
「至誠にして動かされざるものは、未だこれあらざるなり」
です。

今日からしばらく、講孟箚記と「孟子」を読み比べてみて、その結果気づいた事をブログで更新していきたいと思います。

天皇とはなんなのでしょうか。天皇制度は、なぜ日本の古代以降続いているのでしょうか。
網野善彦の天皇制に切り込む「魂の刃」みたいなものは、尊敬に値します。

日本の中世においては、農村共同体同士の間に中立地帯みたいなものが存在していました。それは海岸べりであったり川原であったりするわけです。そこには農村共同体に所属しない自由の民が存在し、その中立地帯には市が立ち、農村共同体同士の交易が行われていたのです。

ここで重要なことは、天皇とは農村共同体を支配するのではなく、農村共同体同士の間の中立地帯を支配するものであるということです。天皇は農業民に結びつくものではなく、共同体の中立地帯に存在した人々、すなわち悪人、河原者、勧進聖、乞食、商人などのアウトサイダーの人々と結びついていたのです。

このようなアウトサイダーの人々と結びつく事により、天皇は千何百年も生き延び続ける事のできる根源的な力を得ることが出来たのです。



正義とはなんなのでしょうか?


ラディカルにいえば、正義とは個体間の利害関係を調整するものです。多くの個体を支配するものが大きな力を得るのではなく、多くの個体間の利害関係を調整するものが、正義の名の下に大きな力を得るのです。

天皇はそのような種類の正義として、いつの時代にも蘇るのです。

私個人は、自分のモラルは自分で決める人間ですから、天皇を必要とはしていません。しかし、日本に多くの天皇を必要とする人がいるとするのなら、天皇制を否定する事もないでしょう。


河原にできた中世の町 へんれきする人びとの集まるところ (歴史を旅する絵本) [ 網野善彦 ]
河原にできた中世の町 へんれきする人びとの集まるところ (歴史を旅する絵本) [ 網野善彦 ]




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