magaminの雑記ブログ

2014年05月

南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人間も西方十万億土にある浄土に駆け上る事ができる。

浄土宗はそう教えます。

これ、現代から見れば正直とぼけたたわごとみたいに聞こえます。しかし親鸞はこれを突き詰めて考えます。例えば念仏というのは何回唱えれば効果があるのでしょうか。唱えれば唱えるほど浄土に近づくのでしょうか。いや違う。阿弥陀仏の力が計り知れないものであるならば、念仏を唱えた回数などという物は問題にならないのではないでしょうか。南無阿弥陀仏と一度唱えれば浄土行き決定。
親鸞はさらに考えます。一度たりとも唱える必要はないのではないか。阿弥陀仏をイメージするだけで即菩薩なのではないか。

突き詰めて考えると言う事はすばらしい。

阿弥陀仏をイメージするだけで即菩薩であるなら、日常の道徳ということはどうなるのでしょうか。例えば親が死んだ時に、葬式はどうしましょうか。そんなものは必要ないですね。全くやらないというと角か立つから、適当にやっちゃいましょう。さらに、親の墓参りなどというものは必要ないですね。親の墓参りをしたとしても、天国とは何の関係もないのですから。

実際、親鸞は地域のコミュニティーを破壊すると言う理由で、時の権力に迫害されています。

もっと突き詰めて考えて見ましょう。

念仏というものは、結局、浄土に行くのに必要がないものなのに、何故仏典には念仏を唱えろと書いてあるのか。
それは方便なのです。
頭の血の巡りの悪い凡人に仏の世界を分かりやすく説明するための、仏が残した「足場」みたいなものなのです。
では、西方十万億土にある浄土なるものは何なのでしょうか。それも方便なのではないでしょうか。浄土とは西方十万億土にあるのではなく、世界のあらゆる場所に遍在しているのではないでしょうか。
では、阿弥陀仏とは何なのでしょうか。それも方便なのではないでしょうか。阿弥陀仏とは何らかの形あるものではなく、何らかのチカラとして世界のあらゆる場所に遍在しているのではないでしょうか。

以上のことをまとめてみると、
世界には人間の運命に決定的な影響を及ぼしている力が存在していて、それを人間は感じたりかんじなかったりしている。
ということになります。これは宗教なんでしょうか。

親鸞はこの普遍的な思想で、日本に住みながら日本的な稲作社会や村社会から外れた人たちを救い上げたのだと思います。
親鸞はすごい。
親鸞には感動した。

最近、「朱子学化する日本近代」という本を買いました。これが5500円もして、だから真剣に読もうと思っているのですが、そのために朱子学さらには儒教を勉強しようと思いまして、さらには儒学のアンチテーゼとしての老子・荘子を読んでみました。

中国は伝統的に神という概念に人格的なものが欠落しています。孔子は神概念を「天命」と呼んでいましたが、天命とは運命とほとんど同義です。2300年前の戦国時代の中国においてはすでに、運命という神的なものが人間世界を包んでいると考えられていました。で、そういう世界観の中で社会的な部分を担う論理が儒教であり、個人的な部分を担う論理が老荘思想になります。

老荘思想において人間は、運命の前に謙虚になり、世界の前に絶対無差別を自覚します。その普遍というものは自分の中にもあるし、自分の外にもあります。この辺の考えは、ヨーロッパの神概念などと比べれば、日本人には分かりやすいと思います。

その老荘思想は後漢崩壊後の三世紀以降に急速に中国に広がった仏教と混ざり合い、中国仏教というべき禅宗と浄土宗がうまれます。禅宗は普遍というものが自分の中にあるという考えに立ち、浄土宗というのは普遍というものが自分の外にあるという考えに立ちます。
中国浄土宗は日本において親鸞の浄土真宗によってある種の完成形にいたります。

老荘思想は紀元前からかなり有力な思想でしたが、後漢崩壊後の六朝時代において最盛期を迎えます。それを考えると老荘思想は古代日本においてもかなりの影響を与えたと思いますし、浄土宗系にも老荘思想が濃厚である事を考え合わせれば、日本の伝統ともいえるものの中にも老荘思想がかなり食い込んでいるのではないかと思います。

顔淵死す。ああ、天、吾を亡ぼせり。天、吾を亡ぼせりと

(先進第十一 271)


顔淵は孔子の弟子なのですが、その岩淵が死んだ時の孔子の悲しみがぐっと伝わってきます。
論語は言葉を繰り返して意味を強調するという技を使います。これは言葉を大事にする論語において効果抜群です。

論語そのままを読んでみてわかることは、少ない言葉で多くのことを語るという姿勢がいいです。近代文学なんてものは、どんな名著でも、多くの言葉で多くを語るというのがあたりまえです。ネットにおいては、多くの言葉で内容は貧困なんてことはざらです。

誰もが、饒舌は寡黙より何かを伝えられると考えてしまいます。どうしても「一言多く」なってしまうのです。でも論語は違います。

子、仲弓をいう。いわく、り牛の子、赤くして且つ角よくば、用うることなからんと欲するといえども、山川これを捨てんやと。

仲弓というのは孔子の弟子なんですが、親が犯罪者で、仲弓自体は人格が立派なのに親の事で他人にぐだぐだ言われるわけです。しかし、そんな背景説明みたいなものは論語においてざっくり削除です。ただ、

仲弓をいう。

これだけ。
り牛というのは、角が曲がって祭祀において役に立たない牛。でもそんな牛の子供がもし立派な牛だったら、山の神や川の神は祭祀のときに、その立派な牛を親がダメ牛だったからといって拒否はしないだろう。
と、ここまで。
普通は続けたくなりますよね、
「だからおまえら、親がダメ親だったからといって、なんとかかんとか・・・」
しかし、そういう一言多いところはいっさい削除。

論語は言葉を繰り返して意味を強調するという技を使います。これは言葉を大事にする論語において効果抜群です。



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インドで興った仏教が日本に伝わってきました。でも、日本の仏教と言うものには、輪廻転生というインド風の思想が薄いのではないのかと日頃思っていました。

私の田舎では葬式なんかの後でお坊さんを囲んでのお話みたいなものがありました。クソ坊主を中心に当たり障りのないような、お互いをヨイショするような話をするわけです。高校生くらいのときかな、私、そんなのが我慢できなくて、

「仏教においては、来世というのはどう考えているのか」

とか

「般若心経の意味はなんなのか」

とか、空気無視の質問をねじ込んで、かなりのひんしゅくを買ったことがあります。私でさえ普通はそんな親戚の間で空気無視みたいなことはしないです。親戚同志がお互いの人物批評みたいなことをしても、相槌ぐらいはうちます。しかし、人の死に関わる場面では、そうはいかないね。ここを逃しては彼らには自分の内面を見つめるなんてことはないのではないのかと思って、ある種の善意で坊主に食って掛かるわけです。

まあ、それはいいとして、インドから中国に入った仏教は、中国人の老荘的なフィルターを通して理解され、それが日本に伝わったそうです。

ある意味あたりまえですね。

日本では、自然にする、というか、人為的なものを排除してあるがままを楽しむ、ということが伝統であるとされたりしますが、それは老荘思想の流れを汲んでいます。民族という枠組みで日本を考えるのではなく、東アジアという枠組みで考えないと、日本の本質にはたどり着けないと思います。いま、中国がどうとか韓国がどうとか話題になったりしますが、そういう話題はげんなり。ある種の呪いではないのかな。とにかく大きい枠組みで物事を考える事が大事だとおもいます。

私は子供が4人いて、みんながそれぞれに可愛いのですが、これってなんなんでしょう。自分の魂を分けたような、自分の分身のようなものがですよ、私を囲んで、ワッショイワッショイって、なんだか、無からこの状況を作り出せたとしたなら、これはある種の神話ですよね。

好きな女と仲良くしていたら、仲良くするたびに子供が出てきて、「パパー、パパー」って。
何かが私をはるかな高みに持ち上げてくれているのだと思います。これはもう完全に、自分の力を超えた何十億年にもわたる生物の営みが、私を巻き込んでゆっくり動いているということなのでしょう。

そう考えると、多くの手がそれぞれの人を高みに持ち上げてるんですよね。
自分は働いていてお金を稼いで、何にも疚しいことはないなんて考えていても、それは威張れるほどの事ではないのでないのかな。

こんな事を書いていて、株式市場に12年もいるというのはおかしいかもしれませんが、なんだか、ふと我に返るということもあると言う事でしょう。

寝る前に、最近は「論語」を読んでいます。すぐ眠くなります。漢字が頭の中をぐるぐる回って、もう一字も読めないって感じになって。

孔子は紀元前500年くらいの、中国春秋時代の人です。「論語」は孔子やその弟子の喋ったことなどをまとめたものなんですが、とりたてて物語があるわけでもなく、オチがあるわけでもなく、ただ会話の断片を寄せ集めたもの、今で言うと、孔子ツイッター語録みたいなものだと思います。

例えばですね、

「お父さんお母さんの年齢は覚えておいた方がいいよ、思いやりが深くなるから」

と、こんな感じの短文が続くわけです。だからなんなの、みたいな事の積み重ねなんですが、そのうち孔子の人格に触れる様な気がしてきて、悪くない気持ちになってくるのです。これは本当に春秋クオリティー。春秋は本当にいい。

中国で一番行きたい町は、臨淄(りんし)。

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相沢三郎という人物をご存知だろうか。

相沢三郎中佐は、昭和10年単身で陸軍省の建物に乗り込み、軍務局長の永田鉄山を日本刀で斬殺。犯行時に指を切ったので陸軍省の医務室で手当てを受けているところを、憲兵に連行されようとして、

「私はこれから台湾に赴任しなくてはならないから」

と答えたという。

普通に考えれば、頭のおかしいヤツによる殺人事件ということになります。しかし、相沢中佐は頭が狂っていたのでしょうか。

王陽明の「伝習録」読んでいる時に、私は相沢三郎の事ばかりを思い出しました。

陽明学は社会に参加するということを重視します。隠者の生活を拒否し、善意によって社会に働きかける事を推奨します。
陽明学は人間の本質を善であると設定し、その善を曇らせるような小市民のモラルを断固拒否します。
陽明学はその善の質を重視して、量というのは問題にしません。質として純金でさえあれば直ちに聖人と合一てきるのですから。
陽明学は日々の節制によって、自分の中にある善をさらけ出して、その善を直感で把握します。

これ、全部相沢三郎そのものではないでしょうか。

相沢三郎は昭和10年時、すでに45歳です。ロートルで口数も少なく、45歳で中佐ということは、そう頭が切れるというわけでもないでしょう。皇道派の若手からすれば、尊敬すべき先輩ではあっても、それ以上の人物ではなかったでしょう。

しかし、その相沢がやってくれました。歴史に残る「相沢事件」というやつを。後に二二六事件を起こした将校達は、相沢三郎を陽明学で言う「純金」として認識したと思います。私でさえそう思ったのですから、間違いないです。

相沢が夏の暑い日に陸軍省の廊下を歩く時の足音、軍務局長の部屋へ続く扉のノブを右いっぱいまで回したときの感触、扉を引いた時のかすかな軋み。


全てが眼前で繰り広げられているような。




イギリスの産業革命に必然性はない、となると、べつに西洋資本主義でなくてもかまわないわけです。論語資本主義でも、仏教資本主義でも、もちろん陽明学資本主義でもいいわけです。

陽明学とはなんなのか。王陽明の伝習録を読んでみました。

陽明学は儒教の一種です。儒教というのは、真理の追求というのが目的ではなく、万人における人格の完成というのが目的なのです。もちろん陽明学も。ですから、王陽明も弟子によって語る論理が変わってくるのです。陽明学とは何か、ということを知りたければ、王陽明が弟子達に語った語録から、そのエッセンスのようなものを忖度しなくてはならないのです。

西洋哲学になれたものからすると、メンドクサイですね。

陽明学は、まず人間の本質を「善」であると確信します。しかし多くの人がその「善」を発揮させる事ができない。それはなぜかというと、日常生活を送っているうちに、あれが善であるとかこれが悪であるとか刷り込まれてしまい、人間固有の真実善が覆い隠されてしまうからなのです。その真実善を発現させるためには、小市民的なモラルを振り払う必要があるのです。

謙虚な気持ちなる事によって振り払えるモラルもあるでしょう。日々緊張感を持つことによって振り払えるモラルもあるでしょう。いろいろな訓練をすることによって、小市民的なモラルの霧が晴れてきたならば、それはチャンスです。直感という人間に与えられた武器によって、「真実善」を手に入れるのです。

小市民的なモラルを振り払おうとするあなたは、周りの人間から胡散臭い目で見られます。
あたりまえですよね。
しかし、狂者にこそ、小市民のモラルではなく自分自身のモラルを掴むチャンスがあるわけです。


日本史において、この陽明学を体現した人物がいます。

その人物の事を語るのは次の機会に。


壱番屋は、カレー専門店のココイチなどを展開する外食大手です。


PER31.06 倍PBR2.77 倍

と株価水準は近年の急騰でかなり割高になっています。

株価 4185円
配当 60円
株主優待は
 100株で 年3000円
 500株で 年10000円
 1000株で年20000円 相当のココイチなどで使える優待券です。優待込みの利回りは1.8%ということになるでしょうか。

ただ500株買えば200万、1000株買えば400万です。カレー屋にそこまでお金を突っ込むというのも、リアルというものから外れると思います。現実的に買えるのは100株でしょう。

ココイチは美味しいのですがトッピングメニューがメインで、ランチで普通に頼んでも800円以上します。ですから外食大手の店舗にしてはかなり客層がいいです。年に何回か株主優待消化のためにココイチに行きますが、ストレスなく食事をすることが出来ます。こういう外食優待銘柄は貴重です。

そもそもですよ、株をやって優待を貰おうなんていう人は、ある程度以上の経済的な基盤がある人たちがおおいでしょう。そんな人が、例えば吉野家を買って、優待を6000円貰って、牛丼並を年20杯食べられるでしょうか。ココイチならば利回りは低くなるのですが、優待消化にストレスはありません。

壱番屋を100株持っていても、何の問題もないでしょう。

まーちゃん、かわいいなー。何でこんなにかわいく生まれてきてくれたん? パパの遺伝子の中にこんなかわいい遺伝子がはいっとんたんなー。まーちゃん、5歳になるけど、もーこれ以上おおきゅうなったらいけんよ。おおきゅうなったら、パパのこと嫌いになってしまうけー。パパとずっといっしょにおってーよ。どっかに行ってしもーたらいけんよ。パパと一緒にお風呂はいって、一緒にねんねするよ。パパとずっと一緒におってーよ。

「ババ、きもい」

きもい、とかゆっちゃーいけん。きもい、言われたら、パパ悲しゅーなってしまうけー。まーちゃんはかわいいなー。パパの中にも、こんなかわいい遺伝子がはいっとったんなー。まーちゃん、ママには全然に似とらんよ。ママはブーちゃんじゃけど、まーちゃんはかわいいけー、まーちゃんがかわいいのは、パパのオカゲなんよ。まーちゃんは、ずっとパパと一緒におってーよ。どこにも行ったらいけんよ。今日寝る前にチューしてあげるけー。

「チュー、きもい」

きもい、っていうのはどこで覚えてきたん?

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