magaminの雑記ブログ

2014年03月

日本古代史って進歩するんですね。高校で習ったのと全然違う。

結論から言いますと、古代日本において、任那という朝鮮植民地なんてものは存在しないね。日本書紀をマルマル信じると、あたかも日本は朝鮮半島にかなりの権益があったかのように思ってしまうけど、日本書記は天武天皇の時代に書かれたもので、割り引いて読まなくてはいけないというのは合理的な考え方です。

私も日本人ですから、古代日本が朝鮮半島にまで強い影響力があったなんて思えば悪い気持ちはしないです。でもね、事実に即して物事は考えていかないといけません。古代史なんていうのはパズルみたいなものですから、思い込もうと思えば、なんとでも妄想を膨らますことは出来ます。ただ中国から朝鮮半島を通して、文明が日本に流れ込んできたのは間違いないわけですから、日本が朝鮮半島に強い影響力を持っていたと考えるより、朝鮮半島から流れ込んでくる文明を倭国の貴族が独占することで日本を統一できていた、と考える方が普通ですよ。

「日本の古代」というものは、ある種微妙な時代です。天皇の根源というものに触れざるをえないですから。でも、あの戦争から70年です。天皇は神聖であるとか、天皇は平和主義であるとか、ウンザリするようなイデオロギーの呪いを振り切って、リアルな天皇というものを考えていかなくてはいけないと思います。


三光マーケティングフーズ は低価格居酒屋や東京ちから飯などを展開する、外食中堅です。

 株価 883円 6月決算
PER0.00 倍PBR1.16 倍

配当 年16円
株主優待 100株で年6000円分の自社優待券です。

先週の土曜日、府中に子供3人と映画を見に行きまして、帰りに三光マーケティングフーズが展開する「金の蔵」という低価格居酒屋に行って、優待券6000円を消化してきました。

やっぱりドラえもんは偉大だね。映画のドラえもんとその仲間達、もうさすがにいくところないだろう、未来も行ったし過去も行ったし宇宙も行ったし地底も行ったしで、と思っていたら、今回は中央アフリカ、犬の国だって。それ無理があるんじゃないの、と思ったけど、子供達は大喜び。子供が喜んでくれれば、何の問題もないです。

三光マーケティングフーズが展開する「金の蔵」の話でしたね。

府中の「金の蔵」は、全席掘りごたつ形式。低価格居酒屋なのに結構頑張って改装してあるな、という第一印象でした。で、生ビールが290円。居酒屋チェーンの店舗の中では、かなり安いと思います。料理は値段相応なんですが、とにかく安いです。これ以上のコスパを求めるなら、スーパーでから揚げ買って、家で缶ビールを飲むしかないですね。
さすが府中ですね、お客さんもあちこちで競馬談義です。競馬仲間と競馬の話をしながら飲むビールはうまいんでしょうね。私、競馬をやった事ないから分からないんですが。まあ、客層も思ったより悪くなかったです。

三光マーケティングフーズは東京チカラめしでかなりの下方修正をしましたが、居酒屋にはある一定のチカラがありますね。主力で勝負、といわけには行かないですが、優待が存在する限りは、200株ガチホールドです。




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司馬遼太郎は何故あんなに乃木希典に厳しいのでしょうか。司馬遼太郎にとって、時代は乃木希典以前、乃木希典以後に分かれていて、前者はよい大日本帝国、後者は悪い大日本帝国のレッテルが貼られているかのようです。
旅順て゛16000人死んでるけど、ロシアだって10000人死んでるわけだし、結局旅順は落としたんだし、そう乃木希典を愚将扱いするほどの事もないのではと思います。

司馬遼太郎は太平洋戦争に従軍しましたが、そこでよっぽどいやな目にあってきたのでしょうか。全体主義日本の源流として、明治天皇に殉職した乃木希典に司馬遼太郎の憎しみが凝固したんでしょうね。

司馬史観というのは、日露戦争までの日本は上り坂のいい日本、日露戦争後の日本は下り坂の悪い日本と区別する事であると私は理解しているのですが、歴史をこんなに簡単に判断していいものでしょうか。
司馬史観は、戦後の成長日本を「日露戦争前のいい大日本帝国」になぞらえる事で団塊の世代を中心に急速に受け入れられた考え方だと思いますが、では1990年以降のバブル崩壊後の今の日本は悪い日本なんでしょうか。私は1990年以前以後だいたい均等に生きましたが、今が30年前よりダメな時代であるとは思わない。

司馬遼太郎の本は読めば面白いんですが、やはり戦後レジームの限界があるのでしょう。

ノブレス・オブリージュとでも言えばいいのでしょうか。上に立つものはそれなりの責任がある、これをもっと突き詰めれば、戦争になれば上のものから死ななければならない。

これは「正義」だと思うのです。

明治維新も、戦わなくなった武士たちからの権利奪還運動だったのだと思います。日露戦争あたりまでは、伊藤博文や山県有朋が生きていて、彼らは維新の元勲、自ら命をかけて白刃の下をくぐりぬけた者達の生き残りですから、支配者としての合理性はあります。しかし日露戦争ではっきりした事ですが、徴兵制下の戦争で死ぬのは庶民、儲けるのは財閥、というのでは、維新の元勲が死んでしまえば明治国家はもたない。そこに正義がないから。

明治末期の地方改良運動、大正維新、昭和維新、など大日本帝国経済が恐慌になるたびに反自由主義的な運動が起こるのは、ある意味当然です。日本人は貧富の格差には耐えられるけど、命の格差には耐えられない。

昭和になっての最後の元老、西園寺公望。総理大臣は彼が指名します。原田日記を読むと、元老西園寺とその周りのみが賢くて、あとは馬鹿みたいに書いてあります。

本当にそうなんでしょうか。

西園寺は理解していないんですよ。正義を求める日本人の心を。明治末において、日本の一人当たりのGDPというのは、イギリスの8分の1、ドイツの5分の1、イタリアの3分の1です。西園寺にはヨーロッパがまぶしすぎて、日本の人民の事がよく見えていなかったのでしょう。だから、彼はうまく立ち回ったようで、しかし徐々に政治力を失っていきます。

総力戦の時代に自由主義体制なんていうのは、当時の日本の経済レベルから言えば無理だったんですよ。

「悪霊」を最初に読んだのは、高校1年くらいだったと思います。主人公のスタブローギンがクールで力強くてかっこいいと思った記憶があります。

でも20何年たって読み返してみると、スタブローギンとの対極にあるような登場人物たちに、ドストエフスキーの愛を感じるんだよね。
まずシャートフ。
シャートフは、まじめで一途で義理堅いという設定のロシア人の典型です。このシャートフのところに何年も前に付き合っていた女が、腹ぼてになって帰ってくるのです。シャートフは大喜びです。大好きだった女が帰ってきてくれた、それも子供をおなかに抱えて。誰の子供かなんていう野暮なことをシャートフは尋ねたりなんかしません。もううれしくてうれしくて、冬の真夜中に産婆の家に向かって走り出していきます。産婆を無理やりたたき起こして、自分の部屋に引っ張ってくるのです。
最後、シャートフはスタブローギンの取り巻きに殺されてしまいますが、「近代に殺される愛すべきロシア」を象徴する人物として、きわめて生き生きとドストエフスキーによって描かれています。

レヴャートキン大尉
大尉ということになってますが、むかし大尉だったらしいというだけで、正確に言えば元大尉です。コイツがとんでもないクズです。飲兵衛で乱暴者で、強いものには卑屈で、頭の弱い妹と住んでいるのですが、この妹をいじめるのです。このかわいそうな妹はレヴャートキン大尉を兄ではなく召使だと思っていて、その事でさらにいじめられるのです。
このレヴャートキン大尉が、「何で?」と聞かれてぶち切れるのです。私たちの周りにもいますよね、すぐ、「何で?」と聞いてくる人が。少しは自分で考えてみればいいのに、と私なんかはちょっとイラッとしたりします。レヴャートキン大尉はぶち切れてこういいます。
「何で?だと。この世界の生きとし生けるあらゆるものが、神様にたいし何で?と尋ねている。
何で私は生まれてきたの
何で私はここに生きているの
何で私は生まれて死んでいくの

これに対し神様は一度たりとも答えたことはない、無数の何で?に対して一度たりともだ。神様でさえ答えた事のない質問に、このレヴャートキンさまは答えなくてはいけないのか!!!」

レヴャートキン最高。ドストエフスキーはこんな取っておきのセリフをこんなクズに割り振るんだからズルイ。

ドストエフスキーは世界文学時史上最高の作家であることは間違いないです。

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最近、嫌韓だとか、ヘイストスピーチだとか、ねとうよとか、よく話題になりますが、太平洋戦争を判断するためには、あの時代の事をよく知らなければならないと思うのです。あの時代に生きた人たちに出来るだけ寄り添って、魂の息遣いが聞こえるほどに。

この昭和史探索のなかに、226事件で生き残った将校の、226から50年後の座談会というものが載っています。これはもう、歴史上の人物が現代において語り合っていると言ってもいいほどの迫力があります。

明治憲法下において、天皇は政治的なことを何か決断するというのは基本的にありません。何かを決断してそれが判断ミスなんていうことになれば、天皇の権威が傷つくからです。
しかし、昭和天皇は三度決断しています。
一度目は、昭和二年、張作霖爆殺事件の処理の仕方について、当時の田中義一総理を叱責。
二度目は、昭和十一年、226事件のとき決起将校を反乱軍だと断定。
三度めは、昭和二十年の終戦です。

座談会の中で常盤稔は
「第一、天皇が自分のご意思を、直接に宣明されるとは思ってないですわな」
「つまり陛下が226事件を失敗に追い込んだということですね。私は今でも天覧相撲においでになると、ああこの方が、われわれの事件を潰したんだなあ、と思いますよ。パチパチと手などを叩いておられるけど」
と、ざっくばらんにかたってくれています。
湯川康平は
「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」
と語ります。私はこの意見には一理あると思うのですが、座談会に出席していた人から、226事件をもっと深く語るべきではないのか、と言う反論が出て、湯川康平はさらにこう続けます。
「陛下の記者会見で、
 記者
おしん、は見ていますか
 陛下
見ています
 記者
ごらんになって如何ですか
 陛下
ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
 記者
226事件についてどうお考えですか
 陛下
遺憾と思っている
遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝されたと」
座談会の他の出席者から、それは陳謝ではない、という指摘が出ました。

天皇とはなんなんでしょうか。いまは日本国の象徴という、正直ちょっとよく分からないポジションを占めていますが、戦前においては、226の反乱将校などは、天皇は日本国そのもの、天皇のもとに日本国民全てが救われるもの、と考えていたのでしょう。が、現実はどうだったでしょうか。昭和天皇は貴族だったんですよ。少なくとも、戦前において昭和天皇は、自分のことを貴族階級であると考えていたのでしょう。それは十分に太平洋戦争の原因となるものです。
 

西田 幾多郎の文章は、奇怪な日本語であるとか、ドイツ観念論哲学の翻訳レベルの難解さとか言われていますが、善の研究を実際に読んでみると、そうでもないですね。現代日本語で書かれていて理解可能なレベルです。

「意識」とはなんなのでしょうか。

西田 幾多郎は最初に「意識」を、ある種の統一力の結果であると定義しています。そんなものかと思う設定ですが、この設定がとんでもない結論を生むことになります。

個人それぞれは、「活動的統一力」によって意識が発生して、人間らしくなっているわけですが、、「活動的統一力」はよく観察するとあらゆるものにあるわけです。犬にも猫にもありますよね。個体として活動して、ある種の意識生命体と判断できますから。
では物質には意識はあるのでしょうか。意識を、「活動的統一力」とするなら、物質にも結晶を作るなどの統一性があるわけだから、意識があるということになります。逆方向に考えれば、国家にも意識があると言う事になります。、「活動的統一力」によって、ある種一塊になっているわけですから。さらに世界、宇宙とどんどん拡大できます。

この調子で「活動的統一力」を展開する事によって、西田 幾多郎は巨大な論理体系を構築します。ギリシャ哲学、スコラ哲学、ウパニシャッド、大乗、ヘーゲル、カント、ベンサム、をなで斬りです。すがすがしいほどです。


西田哲学をオカルトと判断するのは簡単です。石に意識があると言うのですから、大日本帝国に意識があると言うのですから。
だけど、現代科学がどれほど私たちに「意識」というものを説明してくれているでしょうか。全くお手上げ状態です。何も説明してくれていません。精神と物質を明確に区別する二元論に立脚する現代文明は、「意識」をうまく説明できない構造になっているのでしょう。

まあ例えば、私が右腕を動かそうとして実際に動かしたとします。私の意志が脳内のシナプスに働きかけて、その結果腕を動かしたということになるのでしょう。そうなると、意思と最初のシナプスとの間にサイコキネシス現象があったということになります。突き詰めればオカルトになります。
コンピューターに個人の脳内の情報をすべてぶち込めば、そのコンピューターの上空に意識が発生するのでしょうか。このように突き詰めればオカルトになります。

西田哲学には説得力があって、現代社会の欠陥を明確にしてくれています。

だけど私は今の世界、そんな嫌いではないですよ。いいところもいっぱいあるのではないでしょうか。大事なのはこの世界にマジにならない、ということだと思います。何かを思いつめて自殺したり、仕事しすぎて精神を病んだりしてはつまらないということです。なぜなら、この現代世界には欠陥があるのですから。意識や意思や愛や神など、人間が本当に知りたいであろうことの、その中心部分は盲点に入ったかのように見えなくなるわけですから。

税務署は鬼。
会社を半日早退して川崎西税務署に行ったら、猛烈な行列。二時間並んで、申告開始。二時間と今簡単に言いましたが、お金が儲かる、希望のあふれる2時間ではなく、お金を払うために並ぶ2時間。

よのなかにそんなことがある?

国家の強力な権力を体感し続けた2時間です。

申告が終わったら4時50分。ダッシュで銀行に行って、金下ろして税金を払おうと思ったら、5時で税務署終わりだって。

なんなのこれ。

二時間も並ばされて、税務署員に横柄な態度でああでもない、こうでもないと言われ、それをぐっと我慢して、パソコンコーナーで朦朧としながら言われたとおりにパソコンに打ち込んで、最後はアルバイトの腕章をつけたねーちゃんに、書類をプリントアウトしてもらって、本当に最後ふらふらになりながら、

「終わりだよー」

とのありがたいお言葉。

いやこれなんなの。国家は鬼、税務署は鬼。

226事件について考えてみたいと思います。

昭和11年に起きた226事件は、一般的な認識としてあまりいいイメージはないですよね。神がかり的な軍人の失敗したクーデター、日本を太平洋戦争に引きずり込むきっかけの一つ、そんなところではないでしょうか。

昭和初期がどういう時代だったかというと、大正デモクラシーを通して伝統的な価値の崩壊が起こり、個人が歴史から切り離されて、それが常態化しています。その上ものすごい不況です。台湾銀行危機に始まる金融危機にアメリカの金融恐慌が追い討ちをかけ、政府は通貨価値維持のためデフレ政策を採ります。

なんだか、今と似ていますよね。

政府はたぶんこんな事を思っていたのでしょう。
「経済は慈善事業ではないから、一割の犠牲が出るのはやむをえない。九割が確実に救われる道を選択するべきだ」

226事件を起こした将校たちを突き動かしたものが何であったのか。
彼らは非常に悲惨な農民というものに同情していた、とよく言われますが、悲惨な農民、なんていわれても、今の私たちにはピンと来ないんですよね。

私が別の言葉で言い換えてみます。

一割の犠牲なんていうものは許されない。全ての人間が救われるべきだ。農村で貧困にあえぐもの、大東京で孤独にあえぐもの、すべての日本人が救われるべきだ。日本人が日本人であるという事によって救われるべきだ」

とてもナイーブな感情ではあると思います。しかしこの感情の根底は、愛であり善意であり祈りだと思う。
彼らは間違ってない。


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