「自分探し」という言葉があります。まあただ自分の事ばかり考えていても、「自分」が理解できるわけもなく、「自分探し」とは結局自分と社会との関係ということに行き着くのです。次に「社会」とは何なのか? ということに思考は移るわけです。

ここまでは簡単な論理なのです。私も30年前、中学生の時に「自分探し」の結果、「社会」とは何なのかという場所に至りました。中学生だった私は、日本は資本主義国家だから資本主義を知れば、すなわち資本主義発祥のヨーロッパの近代を知れば、自分の周りの世界を理解する事が出来るであろう、と考えました。

1950年代の座談会で丸山真男は近代はデカルトに始まる、と言っています。それはなぜかというと、デカルトが神の世界と人間の世界に境界をつくった人物だからだというのです。
私は昔、もっと突き詰めて考えた事があって、ヨーロッパ近代の萌芽はイエスキリストにあるという仮説に至りました。
それはどうしてかというと、
聖書にはキリストの言動を直接記録した福音書というものが四つあります。その福音書の中でキリストは一見矛盾した言動をとることがあるのです。例えば、ある時は
 金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通ることより難しい
と言います。これはこの世の事ばかり考えてはいけない、という意味でしょう。
別の時には
 祈りすぎるな
と言います。これはあの世の事ばかり考えてはいけない、と言う意味でしょう。

キリストの個々の言動というのは矛盾しているように見えますが、総合して考えてみて、結局キリストが言いたかった事は、あの世とこの世を明確に区別しろ、ということではないでしょうか。そしてこれはデカルトの言った事と同じなわけです。

私はここまで自力で到達したのですが、木田元という哲学者が西洋哲学史の中でこの続きを書いているのです。木田元は
「西洋哲学というのは、精神と物質の二元論という、日本人から見ればある種奇妙な論理に立脚している」
とズバリと言います。この論理の歴史を遡っていくと、プラトンやアリストテレスのギリシャ哲学にまで遡ります。
目の前に椅子があったとしましょう、アリストテレスはこの椅子なるものを、椅子の概念と椅子の材料に分けて考えているのです。日本人からすれば全く奇妙な考え方です。この精神と物質という奇妙な概念を古代ギリシャに導入したのはプラトンです。そしてプラトンはどこからこの概念を引っ張ってきたのかというと、ユダヤ教からだそうです。古代ユダヤ人は困難と迫害の歴史の中で、自らが生き残るために特殊な概念を練り上げたのでしょう。

そして話は初めに戻るのです。

現代日本に暮らす私は、ヨーロッパの近代を知る事によって自分の周りの世界を知る事になったでしょうか? 確かにヨーロッパの歴史には詳しくなりました。論理の訓練にもなりました。世界にはいろんな人がいたのだなということを知ることもできました。しかし、日本を知る事にはならない。「自分探し」にはあまり役に立たない旅でした。

私は、丸山真男のメインテーマは結局のところあの戦争とはなんだったのか、ということだと思うのです。丸山真男はヨーロッパの事を多く語りますが、無駄な旅ではないのでしょうか。
丸山真男ぐらい頭が切れれば、無駄な旅でも楽しくはあるでしょうが。