内藤湖南の支那論は明治の末、新支那論は大正末に書かれたものです。

日本の近代は明治維新から始まりますが、中国の近代は唐末、宋から始まると内藤湖南は言うのです。近代とは何かというと、結局人民が力を持って国を動かす事ができる文明レベル、ということになると思います。中国においては唐末から貴族政治が衰退して、宋代に入って絶対君主の時代が現出したのです。科挙という試験で選ばれた官僚が皇帝をサポートするという体制になるわけです。

現代において中国のイメージは残念ながら発展途上国です。民度は日本の方が高いとか、中国人の年収はまだまだ日本に及ばないとか、ネットではそのような事がよく言われています。しかしそれは中国という国を改革解放以降についてのみ考えた場合であって、長い歴史の上に今の中国があると考えれば、中国という国を簡単に考えてしまうということはやってはいけないことです。

趙匡胤が宋を建てたのは紀元960年です。日本の明治維新は1867年です。ヨーロッパでさえ絶対君主が現れるのは17世紀以降でしょう。内藤湖南によれば、中国は近代に入って1000年以上経っています。中国近代1000年の精神史なるものを研究する事ができれば、今の世界がこの後どうなるかを予見することも出来るでしょう。

人間はせいぜい生きても100年です。人間は生まれてそして死んで終わりなのでしょうか。
私は人間には積み重ねる事ができる何かがあると思うのです。私達はまずまずいい世界に暮らしています。それは過去に死んでいった人間が今生きている私達をここまで押し上げてくれたからなのではないでしょうか。
その押し上げてくれた人類の運動のある部分が歴史といわれているものではないでしょうか。そのものすごい分厚い歴史を体現するものが中国だとするなら、これはものすごい事ではないでしょうか。

私の乏しい能力では、日本の近代を考える事が精一杯です。
誰か中国近代1000年の精神史を考えてくれないでしょうか。そこには絶対何かあると思います。