太字は本文です。


明治40年ごろでしょうか。その青年は伊予に戻ってまたばくろうを始めます。牛の取引の関係で、村の有力者である県会議員の家に出入りするようになります。家のことは女の仕事でしたから、その県会議員の嫁と知り合いになります。

ああいう女にはおうたことがなかった。色が白うてのう、ぽっちゃりして、品のええ、観音様のような人じゃった。

牛の事でその家に通っているうちに、県会議員の家で飼っている牛の種付けの話が出るのです。そして実際に種付けをします。牡牛は事が終わった後牝牛のお尻をなめるそうです。

おかたさまはジイッと牛の方を見ていなさる。そして
「牛の方が愛情が深いのかしら」
といいなさる。
「おかたさま、牛も人間もかわりありませんで。わしならいくらでもおかたさまの・・・」
おかたさまは何もいわいだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。

わしは納屋のワラのなかでおかたさまと寝た。

このおかたさまはこれから二年も立たないうちに肺炎でポックリ死んだそうです。その後青年はばくろうとしてあちらこちらを渡り歩きます。50の時に病気で目が見えなくなったそうです。おそらくなんらかの性病でしょう。盲目になって、昔のつれあいのところにもどります。その後30年以上、四万十川の上流に架かる橋の下で乞食生活です。

この盲目の乞食の独白はすばらしいものがあります。
こんな事をいうとなんなのですが、渡辺純一や辻仁成の文章はこの乞食の独白の足元にも及ばないです。なぜなら、渡辺純一や辻仁成の描く女は男から見た女だからです。乞食が描く女は女そのものだからです。

この物語には「落ち」があるのです。乞食が女にモテる秘訣をレクチャーしてくれるのです。

聞きたいですよね。

わしわなぁ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさだった。牛ちゅうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、あうと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけは嘘がつけだった。女も同じでかまいはしたがだましはしなかった。

牛も女も自分も同じ扱いなわけです。ここまでやらないと真の女は描けないわけですね。これは常人にはムリ。女を描いた日本文学は多いですが、おそらくこの四万十川の乞食がその最高峰でしょう。
辻仁成は女を描きたいなら、フランスに行くのではなく四万十川に行った方がいいね。


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