福沢諭吉が「文明論の概略」の緒言を書いたのは、明治7年です。

明治維新を境に日本社会は劇的に変わります。日本はその後太平洋戦争の敗戦でもう一度社会の変革を体験します。

山田風太郎という作家がいます。彼が戦前戦後と生きて感じることは、
「二つの世界を生きている」
ということだそうです。戦後の繁栄した日本にいても、この繁栄はいつまで続くのか、いつも疑問に思うそうです。ファンタジーなんかでよくありますよね、別世界でまた別の人生を生きるみたいなのが。私は団塊ジュニアの世代ですが、私達のおじいさんの世代は、ファンタジーではなく現実に一生で二つの世界を生きた、と感じた人たちが多くいたであろうと推測します。

明治維新もあの昭和20年と同じで変革の秋です。明治維新の前後を生きた人も二つの人生を生きたと感じた人が多かったのではないでしょうか。

福沢諭吉のすごいところは、多くの人がなんとなく思うところを、明確に意識しているというところです。福沢諭吉は、文明論の概略 緒言の中で、

「我国の洋学者流、あたかも一身にして二生を経るがごとく、一人にして両身あるが如し」

といいます。この言葉だけでも驚くべき発言なのですが、さらに続けて、

「今の日本人は江戸と明治の二つの世界を体験として知っている。だから西洋と日本とを意識的に較べることが出来る。西洋人は西洋しか知らない。意識的であるという点で、現在の日本人は西洋人より有利である。この点は一世を過ぎれば再び得ることは出来ないので、今の時は大切な好機会である」

時代の変わり目をこれほど明確な言葉で認識するとは驚くほかはないです。明治維新後の日本の躍進、太平洋戦争後の日本の発展も、二つの世界を生きた人たちが、その有利さを生かして何かを成し遂げた結果なのだと思います。

「文明論の概略」という本は刺激的な思想に満ち溢れて、なおかつそれが体系をなしているという、日本文芸史上一頭地を抜くものがあるのではないでしょうか。

その刺激的な思想の中から一つを紹介しましょう。

明治維新というのはなんだったのでしょうか。福沢諭吉はこのように言います。

徳川幕府による長い太平によって、日本人は徐々に智恵や道徳という人間本来に備わっている特性を育てる事ができた。しかしいかに智恵や道徳を育てても、きっちりと枠組みの決まった封建時代においては、その智徳をそとに発することが出来にくかった。水戸学や国学は封建の枠をすり抜けてそとに現れた、ある種智徳の実体である。時代が進み、ペリー来航以降になると、日本人の智徳は「尊皇攘夷」というものを先端として、徳川封建制を崩壊させるにいたった。しかしそもそも「尊皇攘夷」なんていうものは、封建制を倒すための一つの口実、便宜的なスローガンみたいなもので、取替え可能。ひとたび維新が実現されれば、攘夷転じて開国となったという。

高杉晋作とか大久保利通とかという固有名詞は一切捨象して、日本人の智徳の総量のみを問題としているのです。

ではこの福沢維新理論を昭和初期の日本に当てはめてみましょう。
昭和初期、それまでの出版の自由や議会政治制度により日本人の智徳が増大して、明治的封建制は根底を揺さぶられる。日本人の智徳は「一君万民」をというものを先端として、明治国家を自滅の戦争に押しやった。しかしそもそも「一君万民」なんていうものは、明治国家を倒すための一つの口実であって取替え可能。「一君万民」転じて開国となる。

太平洋戦争の原因というのは専門家においてもまだ定説がないそうです。しかし福沢諭吉の論理を当てはめれば、日本人が自らを変革するためにワザと自国を真珠湾に突き落としたという事になります。

福沢諭吉の明治維新理論というのは、日本人の知徳が増加した事によって今までの日本社会の枠組みが日本人にとって窮屈になった結果だ、というものです。明治維新を導いた人たちは誰かというと、「知徳ありて銭なきひと」となります。

太平洋戦争の敗戦は、明治維新と同じように戦前の日本社会の枠組みを壊し、日本人を解放する結果となりました。太平洋戦争は明治維新とパラレルになっているのではないでしょうか。太平洋戦争を福沢諭吉的に考えると、大正デモクラシー、議会制の存在、出版の発達により日本人の知徳が増加して、日本人にとって日本社会の枠組みが窮屈になり、そのことによる現状に対する不満が、日本の変革を目的として日本を太平洋戦争に突き落とした、ということになります。そして太平洋戦争を主導した人は「知徳ありて銭なきひと」ということになります。

明治維新において「知徳ありて銭なきひと」というのは下級武士でした。では戦前の昭和において「知徳ありて銭なきひと」とは誰だったのでしょうか。

官僚それも革新官僚といわれる人たち、下級将校、新聞社の下層部、このあたりではないでしょうか。このような人たちが、いろいろなやり方で貴族院、財閥、重臣、地主、などを煽り倒して結局自滅の戦争にいたるわけです。

現状に不満で自由を求めているのに、尊皇攘夷のような逆の主張をして現状を打破しようとする。結局それがうまくいくものだから、後から考えて何がなんだか分からなくなる。そういうことではないでしょうか。

新聞が、戦前は戦争を散々煽っておきながら、戦後は一転反戦に転換するのも「予定の行動」とも考えられます。もちろん彼らが意識してそのような行動をとったとは考えにくいですが、うすうすは気がついていた人もいたのではないでしょうか。

気がついていても死ぬまで言えないよね。日本を解放するためとはいえ日本人が300万人も死んだんだのですから。


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