福沢諭吉は1835年大坂生まれ、現在の大分県中津市育ち。

福沢諭吉は子供のころ、福沢は神社のご神体はなんだろうかと思って社を開けてみた。石が入っていたから「なんだこんな石」とこれをうっちゃって、その辺の石を拾って入れておいた。まもなく祭りになって福沢は

「馬鹿め、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い」

と、ひとり嬉しがっていたという。
まったく、とんでもない悪ガキだ。

二十歳で大坂の蘭学者・緒方洪庵の適塾に入る。天才ぶりを発揮してたちまち塾頭になる。福沢の適塾での態度というのは、

「私は本気で朋友と争ったことはない。赤穂浪士が義士か不義士かの議論が始まったとする。すると私は、どちらでもよろしい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする。君が不義士と言えば僕は義士にしてみせよう、というもので、実の入った議論をしたことは決してない」

というものだった。なかなかここまでは言えないと思うよ。確かなものにすがりたいと誰もが考える。学歴、職歴、知人、有名人、寄りかかれば安心決定のやすらぎってある。ところが、義不義、口の先で自由自在って、さすが福沢だよな。独立不羈ここに極まれりだろう。

福沢の師である緒方洪庵が文久3年6月に死去する。適塾仲間が通夜に集まる。そこでの福沢と大村益次郎との会話が非常に興味深い。大村益次郎とは長州藩出身で明治維新の殊勲者。現在でも靖国神社の正面入り口ど真ん中にでかでかと大村益次郎の銅像が建っている。
「おい大村君、君はいつ長州から帰ってきたか」
「この間帰った」
「どうだ馬関(下関)では大変なことをやったじゃないか(下関戦争)。何をするのか気狂いどもが、あきれ返った話じゃないか」
「気狂いとはなんだ、けしからんことを言うな。長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴ばらにわがままをされてたまるものか。これを打ち払うのは当然だ。もう防長の士民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ」
というその剣幕は以前の大村ではない。攘夷の仮面を冠っているのか本当に攘夷主義になったのか知りませんが、他の者は一時彼に驚かされてそのままソーッと棄てておいたことがあります。
福沢諭吉と大村益次郎の巨人対決だから、どんな議論が戦わされたのかと思ったら、すがすがしいほどのざっくばらんぶりだ。
福沢が語ると、なんだか不思議なクラスメート感が立ちのぼる。学級委員長に同じクラスメートじゃないかと諭されているような、ナショナリズムというのではなくクラスメーティズム的な感じで同じ日本人じゃないかと言われている感じがする。

1868年の江戸無血開城前夜の様子について、福沢諭吉はこのように語る。

江戸城内において福沢
「いや加藤君、今日はカミシモまで着て何事か」
加藤君というのは加藤弘之のこと。明治に入り東京帝国大学第二代総長を務めた有名人。
「何事だって、慶喜公にお逢いを願う」
「今度の一件はどうなるだろう。いよいよ戦争になるか、ならないか、君達にはたいてい分かるだろうから、どうぞそれを僕に知らせてくれたまえ」
「それを聞いてなににするか」
「何にするかって、分かっているではないか。これがいよいよ戦争に決まれば僕は荷物をこしらえて逃げなくてはならぬ」
といったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。

だって。さらにこの後が面白い。

江戸無血開城について
「全体をいうと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許すわけがない。すぐ一刀の下に首がなくなるはずだけれども、これがいわゆる幕末の形勢で、とても本式に戦争などのできる人気でなかった」

徳川慶喜が抵抗を諦めたのは、このような雰囲気を察知したからだろうというのが真実なのかな。

明治10年代の自由民権運動についての福沢の認識。
「ひとを捕らえて牢に入れたり東京の外に追い出したり、まだそれでも足らずに、役人達は昔の大名公卿の真似をして華族になって、これみよがしに空威張りをやっているから、天下の人はますます腹を立てて暴れまわる」

だって。自由民権運動についての有力な見識だろう。このような福沢的な優しい日本社会に対するまなざしが、現代日本にまだあると信じたい。

この世界を生きるにおいて、生きる意味を考えることもあるだろう。意味があるのかないのか。意味なんてないのではないか。虚無に落ち込むということもありえる。
そして、福沢は最後にこのように語る。

「人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞くところではあるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」

福沢は、この書を記した後2年ほどたたった、明治34年(1901年)1月25日に脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。


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