木田元の「現代の哲学」を読みながら近代について考えてみます。

19世紀というは歴史の上を理性が覆っていた時代でしたね。

理性と論理と科学が人間をはるか高みにまで持ち上げるであろう、ということが信じられていました。ヘーゲル哲学なんて人間の歴史を全て包み込む巨大な体系を構築する事を予告する哲学みたいなものです。今から考えるとファンタジーみたいなものです。

第一次世界大戦以降からでしょうか、空虚な理性哲学ではなく人間存在そのものを題材にした哲学が現れてきます。それがニーチェやキルケゴールやハイデガーなどの実存哲学なわけです。私も20年ぐらい前二十歳くらいのときはよく実存哲学と言うのを読みました。「存在と時間」とか「ツァラトストラ」とか。

人間存在そのものの哲学なんていいますが、人間存在というものを突き詰めれば結局「心の仕組み」みたいなことに行き着いてしまうのですよね。どんなにサルトルなんかが「心の仕組み」について偉そうなことを発表したところで、科学的臨床実験で否定されたりするわけです。確かに、言語とは何かとか、サルと人間の違いは何かとか、自分と他人の関係は何かとか、実存哲学には興味深いものもあるのですが、19世紀のあのヘーゲルの歴史と人間理性をを混ぜ込んで意識は神のいるあの天を目指す、みたいなとんでもないワクワクする大風呂敷というものはもうないですね。

日本のあの太平洋戦争も、19世紀理性哲学の最後の花火だったのかもしれないです。

ミネルバのフクロウは夕暮れに飛び立つ 
哲学者は歴史が変化した後にそれを記述して、そして凡人はその記述を読んで歴史が変化した事を知るのです。

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