近日「朱子学と陽明学」を読んで、総論をアップします。(2019/1/20)

靖国神社というものはどんな進歩主義者も、どんな左翼も否定しきれない力を持ちます。

この本でも小島毅は靖国神社や皇国史観の歴史をいろいろ語りながら、著者にとって靖国が認められない理由と言うのが、明治維新のときに薩長が幕府側に紳士的ではなかったというものです。

靖国を真剣に語る人は結局最後には歯切れが悪くなるのです。

立花隆は「天皇と東大」のなかで、皇国史観を否定的に書き続けた後に、
太平洋戦争で死んだ人は犬死であると言う人がいるが、そのような事を言う人は日本の恥辱である。
と断言します。

靖国や皇国史観なんていう一見死んだ思想に何らかの生命が宿っているのです。それを突き詰めて考えれば、それは日本というものの、その「日本」という名称にあると思います。「日本」という名称は中国において随や唐という強力な統一王朝が出来る事によって、アジアの東の果ての島国が自分達の統一的な存在を自覚した結果、当時の天皇がが自分の国ににつけた名称です。
ですから天皇を守って死んだ人を祭る靖国神社を否定すれば、「日本」という名称を否定することにつながってくるのです。天皇には親近感のない人も、「日本」という名称には愛着のある人がほとんどではないでしょうか。

子供のころ見た甘く懐かしいもの、花の咲く丘や、夕焼けが包む人の少なくなった学校や、甘いお菓子や、好きだった女の子のいる風景なんかにも何故か全て「日本」というものがしみこんでいるような気がしないでしょうか。

日本はそんなに悪い国ではないです。もう不景気も長くて、日本よりも金持ちの国なんていうのも今ではいっぱいあるでしょう。でも日本のよさはお金の量なんかではない。

靖国は静かにそこにあり続けるのが一番いいのではないでしょうか。