magaminの雑記ブログ

「ポテチ」は短編集「フィッシュストーリー」に掲載されています。

【「ポテチ」 あらすじ】

今村と大西は恋人同士で、コンビで空き巣を生業としています。今村が男性で、大西が女性です。物語は、今村の視点で進んでいきます。

今村は、母親の血液型がAB型で、自分の血液型もAB型であることを知ってしまいます。メンデルの法則によれば、AB型の親からはAB型の子供は生まれないことになっています。

今村は、自分の生まれた病院で、自分に関する「赤ん坊のとりちがえ」が起こったのではないかと疑います。自分と同日に同じ病院で生まれた男たちを探し出し、業者に頼んでDNA鑑定をしてもらいました。

自分の母親だと思っていた女性の本当の子供は尾崎といい、プロ野球選手になっていました。
尾崎は現在、チームで控えに甘んじています。

今村の空き巣の師匠である黒澤はすべてを察します。黒澤は、尾崎が当日の試合にいい場面で代打に出られるように細工をして、今村とその母親、そして大西をプロ野球の試合に誘います。

今村は、子供がべそをかくように尾崎を応援します。そして尾崎は.......


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【「ポテチ」 意味の解説】

今村の人格描写の一点で優れた短編です。

今村は、チラシの裏にたわむれに三角形をいくつか描いていくうちに、三角形の内角の和が180度であることを発見します。
「車輪の再発見」のレベルを超えています。
自分の大発見を大西に伝えて、彼女に呆れられたりします。今村は万有引力の法則もかつて再発見したことがあるらしいです。

馬鹿なのかかしこいのか分からない所が面白いです。

今村は、自分が母親の本当の子供ではないことで運命を呪うのではなく、母親に同情します。取り違えさえなかったら、母親はプロ野球選手の子供を持つことができたのに、というわけです。

みんなで球場に尾崎を見に行っても、今村は尾崎がプロ野球選手であることを羨ましがったり、尾崎が今は控えに甘んじていることを冷笑したりすることはありません。

「おざきー、おざきー」

と叫び、尾崎の活躍を一心に願います。
すがすがしいです。

形から入る、という人がよくいます。この言葉は誰それという有名な哲学者が語っているから正しいんだ、とか、私と議論するためには聞いたこともない作家の見たこともない本を読んでこい、などというタイプの人です。

このような人たちというのはかわいそうではあります。この世界では、何かの知の体系に寄り掛かっていないとバカと判断されてしまいます。形から入る人たちは、バカだと思われることを酷く恐れています。

今村はこのような「形から入る人たち」とは対極にあります。
坂幸太郎の見事なフォルム批判(形から入る世界批判)だと思います。


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プラトンの洞窟の比喩の意味を簡単に解説すると、

「より合理的な考え方をしましょう」

みたいなことになります。





【洞窟の比喩とは】


ウィキペディアには、

「洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる[1]。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える」

とあります。
知らずに縛られてしまった人は実体と影を区別することができず、与えられた影を実体と勘違いしてしまうことになるだろうということです。

簡単に考えてしまうと、自分の理解している世界は実体で、気に入らないあいつが理解している世界は影だ、みたいなことになってしまいます。
よくあるのは、韓国の考えている歴史は嘘を教えられた影の歴史であって、日本人である自分の理解する歴史こそが実体である、みたいなことです。

プラトンが語る「洞窟の比喩」というのは、実体と影との二元論ではないです。今いる環境が影だと思って実体の世界に飛び出してみたら、じつはそこも影の世界だったということがありうる、ということが、「洞窟の比喩」の話の中には含まれています。そのように考えないと、プラトンの「国家」という本の中に「洞窟の比喩」が存在する理由が分からなくなってしまいます。

「洞窟の比喩」とは、人間は影の濃い世界から、より実態のある世界へと移行し続けなくてはならないという、知性の決意表明みたいなものだと判断するべきです。


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【夢と現実の差とは】

影を夢、実体を現実、と当てはめてみます。

夢と現実というのは大体は区別のつくものなのでしょうが、厳密に夢と現実の何が違うのかと問われると、ちょっと難しいものがあります。

中国古代の「荘子」のなかに胡蝶の夢というのがあります。書き下し文で書くと、

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

とあります。
夢で蝶であるのなら、みじめな現実の自分より蝶である方がましなのではないのか、という含意があると思います。蝶である方がましだと思った瞬間に、夢と現実との区切りが重要ではなくなってくるわけです。

プラトンは「胡蝶の夢」のような、幸福感というか堕落というか、そのような考えを断固拒否するわけです。夢と現実との差というのは、プラトン的に考えれば、より大きくより整合性の高い世界観を上位に置くことによって判断されるべきだ、ということになるでしょう。

【プラトン的世界観の結果】

より大きくより整合性の高い世界観を求めるプラトン的思考は、最後はローマ帝国という巨大な歴史的帝国に結実します。より大きくより整合性の高い社会がより実体的であるとするなら、当時のヨーロッパ地域においてローマ帝国こそが正義の世界であるということになります。少なくても、紀元前後にヨーロッパ地域に暮らしていた人々はローマ帝国こそがより正義を含意していると考えていたでしょう。

中国も同じです。
「荘子」の胡蝶の夢的世界を孔子や孟子の儒家や韓非子などの法家は拒否して、より巨大でより整合性の高い社会こそが実体であるという儒家や法家の考えが主流になります。より巨大な整合性への希求が、秦をへて大漢帝国へと結実します。

【洞窟の比喩の現代的意味】

長い時間の中で大漢帝国やローマ帝国は現れています。
ですから、どちらが影でどちらが実体であるか、というのは長い時間の中で判明してくることがあり得ます。戦前、日本は中国を侵略したということになっています。私は侵略の事実を否定するものではありませんが、当時の日本人には、
「中国がいくら図体がでかいといっても、あんな黄昏の帝国の後に付いていっていたのでは、日本まで西洋の植民地になってしまうだろう。こうなったら、中国を切り従えて日本がアジアの盟主となって西洋と対決するべきだ」
という考えがあっても不思議ではない状況でした。

あれから100年、現状はどうなっているでしょうか。

まさに日本こそが黄昏の帝国。100年前、中国こそが影であると思われていたのですが、冷戦崩壊以降に中国は西洋に猛烈な勢いでキャッチアップしています。

これは中国が蘇ったというより、中国があるべき世界史的地位に復帰しつつあると考えることもできるでしょう。100年前の中国は、影の中に実体を潜めていたわけです。

何が影で何が実体であるかというのは、短い時間軸の中では簡単には知ることは出来ないのです。

【洞窟の比喩再び】

プラトンは洞窟の比喩を「国家」という本の中で語っています。洞窟の比喩とは、国家のような巨大な枠組みの中で語られてこそ意味がある、とプラトンは考えているのでしょう。

「国家」という本は、正義とは何か、という議論から始まります。
正義が何かから与えられるのであれば話は終わりです。私たちはアポロンの神々の言うことに従いましょう、ということになります。

しかしプラトンは、正義ほどの大切な観念は、その根拠を自らの中に持つべきだ、と考えて論理を展開します。
大切な観念は根拠を自らの中に持つべきだ、という思想の中に、より巨大で整合性の高い思想、社会体制、哲学こそが必要だ、という思考パターンが潜んでいます。
ですから「洞窟の比喩」は
単独で理解するべきものではなく、より巨大な歴史の中で理解するべきものでしょう。

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「はぐるとはめくるという意味です」

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終押さえつけていた」


梶井基次郎の「檸檬」は始まる。
私の心を押さえつけている得体の知れない不吉な塊とは何なのか、とつい探求したくなるのだけれど、梶井基次郎はこのような思考パターンを軽やかに拒否する。

「肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金がいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ」

強いなって思う。

散歩コースに八百屋があってレモンを一つ買う。レモンの爽やかな香りを胸に吸い込む。胸を膨らませるレモンの香りと、胸を押さえつける不吉な塊。自分の胸をめぐるレモンと不吉な塊との相克。

無題



レモン強し。今日は気分がいい。京都の丸善に突撃しようかという。

そういえば私も大学時代は名古屋の栄の丸善によく行った。30年前の丸善というのは人を選ぶような大型書店で、選ばれたような気持ちになっていた私は4階の洋書コーナーでドイツ語の書籍をあさっていた。カフカとかギュンターグラスとかの原書。もちろんそんなものが読めるわけない。かっこつけて何冊も買ったのはいいのだけれど、結局カフカの「城」だけを辞書を引きながら新潮文庫の「城」と読み比べただけだった。

梶井基次郎は丸善に入って画本の棚の前に行く。

そうそう、丸善にはこんなのをいったい誰が買うの? という本が並んでいたりした。今でも覚えているのは、ヤコブス・デ・ウォラギネのキリスト教の聖者・殉教者たちの列伝である『黄金伝説』という本。分厚いハードカバー本で全5巻だった気がする。ちょっとパラパラめくってみた。犬好きの牧師というのがいて、犬に善行を施しまくった結果神の思し召しによって、この牧師は死後ただちに犬の天国に駆け上っていったという記述があった。
何もかもが謎だよね。

梶井基次郎は丸善に突撃したのはいいのだけれど、丸善の雰囲気にのまれて、また不吉な塊が胸を圧迫し始める。

「私は一冊ずつ抜き出しては見る。そして開けては見るのだが、克明にはぐっていく気持ちはさらに湧いてこない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る」

だんだん本が積みあがってくる。30年前、私は引き出した本は元に戻しはしたけれど、梶井基次郎の気持ちは分かる。

そしてラスト。そういえばポケットには黄色いレモンがあったんだ。積み上げてしまった本の上にレモンをそっと置く。

「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」

カーンと冴えかえるという。
カーンだよ。

レモンをのこして丸善を立ち去り話は終わるのだけれど、とにかくえたいの知れない不吉な塊にたいする気持ちのかぶせ方がすがすがしい。なかなかこうはいかないよ。

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短編集の「フィッシュストーリー」から、表題作のフィッシュストーリーを紹介します

【フィッシュストーリーあらすじ】

小説内では、時系列がバラバラに、4つの物語が語られていてます。
時間を古い順番に並べなおして、あらすじを書きます。

35年前
一応プロなのですが売れないロックバンドがありまして、三枚目のアルバムがほとんど最後のアルバムになるだろうという予感が漂います。
最期のアルバムの最後の曲の収録で、時間がなくて一発撮りということになりました。ライブ感覚でやればいいか、ということで、みんなで盛り上がったのですが、バンドメンバーの一人が感極まって、
「この曲が誰かに届けばいいのに」
みたいな独り言を収録中に語ってしまいます。録り直しをすることもなく、独り言の1分ほどの部分を無音にしてレコードは発売されました。

20数年前
雅史は、このロックバンドのアルバムを車を運転しながら、窓を開けて大音量で聞いていました。アルバムが無音の部分になった時、ちょうど女性の悲鳴が聞こえました。
雅史は車を止め、悲鳴の聞こえたあたりに徒歩で戻ってみると、女性が襲われているところでした。正義感の強い雅史は、ビビりながらも女性を助けます。

現在
自殺願望のあるハイジャッカーたちにジャンボジェットがハイジャックされます。そこに乗り合わせた瀬川は、子供のころから親に
「正義をなせ」
と教育されていました。正義をなすにおいて大事なことは日ごろからの心の準備だと言われて、瀬川は育ちました。
瀬川はおそらく、車に乗ってロックを聴いていた男性と襲われていた女性との子供なのでしょう。
瀬川はハイジャッカーたちを華麗に叩きのめしました。

10年後
10年前にハイジャックされそうになったジャンボに乗っていた橘麻美は、自身のITスキルを生かして、大きなハッカー事件を未然に防ぎます。非常に多くの人たちが麻美の活躍で救われたらしていです。

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【「フィッシュストーリー」 意味の解説】

話の意味としては、あるロックバンドの歌に込めた想いみたいなものが受け継がれ、時とともにおおきくなって、最後は多くの人を救うに至るという話にはなると思います。

しかし正直言うと、多くの人が救われたと言っても結果論みたいな話ですよね。最初のロックバンドが1分間の無音を作ったことによって多くの人が救われた、と言っても、100%の関連性とかはないでしょう。最後の女性の橘麻美さんも、自分が気が付いていないだけで命の危険みたいなこともあったと思います。彼女が今まで生きてきたのは、ハイジャック犯を叩きのめした瀬川だけのおかげというわけでもないでしょう。

作者が、物語は運命の必然だと主張しても、神様みたいなみのがない限り「必然」なてありえない、というしらけた意見を完全に排除するのは難しいです。

伊坂幸太郎のデビュー作である「オーデュボンの祈り」では、運命をコントロールするカカシを登場させることによって「必然」を担保しましたが、「フィッシュストーリー」では何も設定されていないので、必然を期待する人間の話になってしまっています。

必然を期待する人間の話、というのでは、「フィッシュストーリー」は平均的な出来の現代小説ということになるでしょう。

伊坂幸太郎は、作中に喋るカカシや死神を登場させたり自由自在なわけで、あえて運命をコントロールするような存在を登場させない小説は、伊坂幸太郎の小説に対するチャレンジだと受け取りたいです。



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「平成」の名前の由来は、『書経(偽古文尚書)』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味


「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。

「明治」の由来は、『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」

菅官房長官によると、「令和」の意味について説明。新元号の出典は「万葉集」だと明らかにした。新時代の元号は、中国ではなく日本の古典から採用されたのは確認される限り、初めて

明治、大正、昭和、平成、の出典は、易経、易経、書経、書経、と五経押しだったので、次は四書かと、論語あたりが妥当かなと思ってた。
安倍総理が山口出身だから、吉田松陰つながりで孟子もありかと。
さすがに孟子はないか。

「令和」の出典は、予想を超えて万葉集。

日本の精神的独立の決意だと受け止めたい

物語の形式というのは以下の4つになります。

1 神話

2 悲劇

3 ポリフォニー(多声的)小説

4 モノローグ(独白的)小説


それぞれにそれなりの面白さがあります。

歴史的に小説世界は、1から4の形式に順次移行していったと考えられます。これが物語の進歩であるか、堕落であるかは葉判断の分かれるところだとは思いますが、進歩と考えるのが常識的でしょう。

様々な物語や小説は
1 神話
2 悲劇
3 ポリフォニー(多声的)小説
4 モノローグ(独白的)小説
に分類できると思います。

人間というのは面白いものを面白いと感じます。しかし、なぜ面白いものが面白いのか、面白いとは何なのか、ということは難しい問題になってきます。

その辺のところに切り込んでいこうと思います。

伊坂幸太郎の「オーデュボンの祈り」という小説を例にして、面白いとは何なのか、について考えていきます。

「オーデュボンの祈り」は伊坂幸太郎のデビュー作なのですが、「オーデュボンの祈り」を読んだことのない人のためにあらすじを説明します。



「オーデュボンの祈り」あらすじ

まず主人公の青年が、他所と交流を絶って久しい島に連れてこられる。青年は島を歩き回っていろんな人と知り合いになる。最重要のキャラクターは、未来を知ることができる喋るカカシだ。田んぼの真ん中に立っている。
このカカシって結構最初の方で殺される。殺されるといってもカカシなんだけれど。カカシ殺しの犯人が強力に追及されるのかというと別にそうでもない。主人公はペンキ屋の青年と一緒に天気を予報するネコを見に行ったりとか、ペンキ屋の青年が憧れの女性とデートしたりとか、主人公が知らない女の子からフライパンとバターをもらったりとか、少女が道端で寝転んでいたりとか、船長が川原でブロックを集めていたりとか、意味があるとも思えない出来事がバラバラに起こり続ける。多少重要だろうと思われることは、嫌われ者のさえないオヤジが殺されたことだ。しかしこのオヤジは島にごく最近来ただけで、島民はほとんど無関心。

460ページの本も残り100ページを切って、これ後どうするの? と心配になってくる。

ところが伏線は強引に回収された。
カカシは、未来を予言するカカシではなく、未来をコントロールするカカシだった。小説内の無意味と思われる出来事は、じつはカカシが望む未来の一事象のためのカカシによる誘導だった。
そしてカカシが望む未来の一事象とは何かというと、これが何と鳩のつがいの保護だった。

まさか二羽の鳩のために世界が回っていたとは!

そういえばみんなチョイチョイ鳩のことを語っていた。この小説の題名「オーデュボンの祈り」のオーデュボンも100年ほど前のアメリカの鳩学者らしい。かつてアメリカにはある種の鳩が20億羽いたらしい。この鳩が集団で飛ぶと何日も空が暗くなったという。
崇高な二羽の鳩のために伏線は回収され、世界が整合性を持って立ち現れる。


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あらすじだけではなく小説の意味の説明までしてしまいましたね。

未来をコントロールするカカシが「神」ということで、カカシが喋って生きている間は、「オーデュボンの祈り」は神話と判断できます。このカカシは小説の3分の1ぐらいのところで殺されるのですが、そのあと物語世界は混沌に落ち込むかというと、そういうわけではありません。神であるカカシの余光みたいなものが残っていて、運命にコントロールされる人間の話に移行します。

すなわち、神話から悲劇に物語が移行していきます。

「オーデュボンの祈り」では、予定調和的に、たちの悪いサイコパス警官が成敗されてめでたしめでたしということになって、
「これ、悲劇なの?」
という意見の人もいるかもしれませんが、サイコパス警官にとっては悲劇です。

神話において神が死んだので混沌世界に移行するのかというと、実際には世界は悲劇世界で踏みとどまる、みたいなことになるわけです。

私たちが物語を面白いと感じる理由がちょっと見えてきてませんか?

神が死んで世界が崩壊するかもしれないという不安が、悲劇という形式の登場で解消されるという点が「オーデュボンの祈り」の面白さを支えているんだと思うのです。

量子物理学的に考えると、神話という高い位相から悲劇という一段低い位相に移行することによってエネルギーが出て、そのエネルギーを面白さを感じる受容体が感受して、私たちは面白く感じるということになるのではないでしょうか。

よくわからない例えを出してしまったのですが。

結局、
1 神話
2 悲劇
3 ポリフォニー(多声的)小説
4 モノローグ(独白的)小説
への移行は、進歩という物ではなく堕落と考えるのが妥当ではないかと思います。



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