magaminの雑記ブログ

魯迅の「狂人日記」は、主人公が美しい月を見ることによって狂い始めるところから始まります。

「狂人日記」の冒頭。

「今夜は大層、月の色がいい。
俺は三十年あまりも月を見ずにいたんだが、今夜見ると気分が殊ことの外ほかサッパリして、前の三十何年間は全く夢中であったことを初めて知った」

これまでの人生が夢の中であり、月を見た後のサッパリした自分が正常であると考えてしまったのですが、周りの人から見るとこれが逆で、主人公は美しい月を見た後に狂気に取りつかれはじめます。

美しい月を見て狂気に沈むというのは近代文学の一つのテーマで、スティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」などはあからさまなのですが、梶井基次郎の「Kの昇天」とか、鬼束ちひろ「月光」の歌詞とか、月に照らされ狂気に沈む人を表現している感じです。



なぜ月に照らされると狂気に沈むのか? 


例えば自分が正しいと思って行動したのに他人に批判された場合、不安になったりすることは誰にでもあることでしょう。このような時には信頼できる人に相談するというのが安定感のある対処法でしょう。自分と世界との折り合いを再調整するというやり方です。

そして狂気とは何か?

再調整のような折り合いをすべて拒否して、世界が間違っていて自分が正しいと考えてしまい、さらに自分が正しいと確信した観念で世界を整合的に説明しようとすること。

狂気と正気の区別が難しいのは、ごくまれに世界が間違っていて個人が正しいということがあり得るということです。
例えば、高杉晋作は農民が戦う奇兵隊という、当時の武士にしてみれば狂気の戦法を編み出したのですが、実際には上級武士よりも勤労農民のほうが戦う気概にあふれているという新しい世界が立ち現れました。

世界が間違っていて高杉晋作個人が正しいということがあり得るのです。

光に照らされて、人は正しい世界に目覚めるということはありえます。

近代の歴史とはまさにそれ。

人は強い光を浴びて、人間は動物とは異なるということを確信する。
人は強い光を浴びて、人間は進歩する世界に存在していることを確信する。
人は強い光を浴びて、人間は自分が自分であるということを確信する。

ここで魯迅の「狂人日記」に戻るのですが、

「狂人日記」の語り手は、月の光という弱い光を浴びて、人間は人間を食べるということを確信します。

「狂人日記」の語り手にとって、自分では理解できないようなことが次々に起こります。

趙家の犬めが何だって奇怪な眼で俺を見る。
往来の人は皆、どれもこれも頭や耳をくっつけて俺の噂をしている。俺に見られるのを恐れている、そんな風だ。
きのう往来で逢った気狂い女にじっと見詰められて「わたしゃお前に二つ三つ咬かみついてやらなければ気が済まない」と言われた。

自分にとって理解できない出来事が次々起こってしまうのは、自分が世界の根拠を形作っているような根拠を理解していないからというという場所に導かれていきます、
月の光によって。

強い光なら人を正しい場所に導いてくれもするでしょうが、なんせ導くのは月の光ですから。

弱い光に導かれた「狂人日記」の主人公は、人が自分を食べようとしているというカニバリズムの論理を確信してしまいます。

人が人を食べるというのは本にも書かれているという。

「易牙(えきが)が彼の子供を蒸して桀紂(けつちゅう)に食わせたのはずっと昔のことで誰だってよくわからぬが、天地が開かれて以来、ずっと易牙の時代まで子供を食い続け、易牙の子からずっと狼村で捕まった男までずっと食い続けて来たのかもしれない。去年も城内で犯人が殺されると、肺病病みの人が彼の血を饅頭にひたして食った」

まず、易牙(えきが)というのは春秋時代の斉という国の桓公という王様の料理人で、自分の子供を蒸して食通の桓公に差し出したという中国史上最大のごますりやです。
桀紂(けつちゅう)の桀とは夏の暴君、紂とは殷の暴君です。
易牙(えきが)と桀紂(けつちゅう)は全然時代が異なります。

月の光の下で、強い光の中で書かれた歴史が混濁しています。

世界には秘密があって、その秘密を理解していないことが自分が世界を理解できない理由であり、世界が自分に隠している秘密とは、
「人が人を食べている」
という確信になります。

五歳で死んだ妹も、人に食べられるためだったということになってしまいます。

「あの時妹はようやく五歳になったばかり、そのいじらしい可愛らしい様子は今も眼の前にある。兄がが家政のキリモリしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に交ぜて、わたしどもに食わせた事がないとも限らん」

狂人は狂った確信を捨てることができません。狂っているとはいえ、その確信こそが自らの生存の根拠となっていますから。

魯迅の「狂人日記」が書かれたのは1918年です。清王朝が倒れて、中国が近代というものに飛び込もうかという時代です。新時代に飛び込んだ後に中国を待つものは、新世界であるのか狂気であるのかを、この「狂人日記」で魯迅は問うているのだろう思います。

「狂人日記」はこのように終わります。

「人を食わずにいる子供は、あるいはいるかもしれない。救え。子供を救え」

魯迅は、さすが中国近代文学の元祖だけあって、並みの作家とは迫力が桁違いですね。



大正3年に始まった第一次世界大戦は大正7年に終わります。

日本にとって第一次世界大戦は天祐で、景気が過熱し成金が大量に発生します。戦後日本で言えば、1980年代冷戦末期におけるあの大バブル期みたいなものです。

大正7年時の総理大臣は原敬です。

原敬は当時の大政党である政友会の実力者で、明治政府藩閥政治の牙城を徐々に崩して本格政党内閣を作りました。
原敬の政治基盤というのは地方の名望家で、地方にいかに公共事業を配分するかというのが原敬の政治力の源泉でした。戦後日本で言えば、竹下登や金丸信ということになりますか。

政治力の源泉が公共事業の配分という場合、疑獄事件というのが起きやすいのですが、そのような政治腐敗に憤慨した一青年によって、大正10年原敬は暗殺されます。

第一次世界大戦後だんだん不景気になって来るのですが、それに追い打ちをかけたのが大正12年の関東大震災です。
そのような閉塞状態を脱却しようということで普通選挙運動というのが盛り上がります。
大正末の日本の選挙制度は、ある一定の税金を納めた男子しか投票権がないという制限選挙だったのですが、普通選挙運動というのは、この納税額の縛りを取り払おうというものです。

この普通選挙運動を主導したのが、政友会のライバル政党である憲政会です。
この普通選挙運動の盛り上がりによって憲政会は政権を取り、大正13年憲政会の党首である加藤高明は総理大臣となります。

これは、1993年に選挙制度を小選挙区制にすることが政治改革であるとして非自民政権をつくった細川政権と似たところがあります。

政治改革で景気が回復するわけではありません。第一次世界大戦後の継続的な景気の悪化で、銀行に大量の不良債権が発生します。昭和2年、台湾銀行という当時の大銀行がヤバくなって、総理大臣であり憲政会の党首であった若槻礼次郎は台湾銀行に公的資金を投入しようとするのですが、これを枢密院によって拒否され、若槻内閣は総辞職します。
枢密院というのは、今でいう有識者会議みたいなもので、大相撲で言う横綱審議委員会的なものです。

昭和2年の若槻内閣崩壊というのは、1996年の村山富市内閣崩壊と似ています。当時の村山富市も住専処理問題解決に自信がなかったから内閣を投げ出したと言われています。

憲政会の若槻内閣の後は、政友会の田中義一内閣です。陸軍大将だった田中義一を政友会が党首にするために引き抜いたという経緯があって、田中義一内閣というのは武断的な内閣でした。

当時の昭和天皇および西園寺公望などのとりまき貴族というのは思想的にリベラルで、田中義一内閣が気に入らなかったのです。
昭和3年、張作霖爆殺事件というのが起こって、昭和天皇が田中義一を叱責するということになって、田中義一内閣は崩壊。憲政会の浜口雄幸が総理大臣になります。

当時の昭和天皇と取り巻きの大貴族を現代で例えるなら、平和憲法とそれを支える大マスコミということになるでしょう。
2009年、自民麻生内閣をさんざん叩いて、国民を民主党政権に誘導したのは大マスコミでした。
昭和天皇勢力は、田中義一叱責事件以降、軍をコントロールできなくなっていくのですが、大マスコミも10年前の民主党キャンペーン以降その力を失っていったのと似ています。

昭和4年、ニューヨーク株式の大暴落が起こり、世界的大不況が始まります。
この大不況に対して憲政会の浜口内閣の取ったのは金本位制に基づく金解禁政策というものです。金解禁政策とは簡単に言うならば「円高」政策です。円高によって非効率な国内の産業を淘汰して、より筋肉質な経済体制をつくろうというものです。

昭和6年、イギリスが金本位制を離脱します。

ヘゲモニー国家イギリス自らの金本位制離脱により、憲政会はその政策の基盤を失います。憲政会の第二次若槻内閣は崩壊して、政友会の犬養毅内閣が成立します。

憲政会は金本位制にこだわるのですが、昭和7年の総選挙で政友会に敗北します。

そして、昭和7年5月15日、五一五事件により犬養総理が暗殺されます。

憲政会の取った「円高」政策というのは、リーマンショック以降民主党の取った円高政策と政治思想的には同じでしょう。景気の悪い時こそ我慢しようという、立派な中産階級向けの政策なのでしょうが、多くの国民がついてこれなかったという。
政治家やマスコミは苦しい時こそ頑張れというけれど、国民にしてみれば、

「そりゃーお前らはいいよなー」

みたいなことになってしまいます。

昭和7年以降も同じで、天皇やその側近、政党政治家の信用は傷つき、国家全体に対する統制力が失われてしまって、太平洋戦争敗戦に至る激動の時代が始まったということになるでしょう。










日本改造法案大綱
大正十二年五月


1 華族制廢止

2 貴族院ヲ廢止
3 普通選拳
4 私有財産限度。日本國民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壹百萬圓トス

5 私有地限度。日本國民一家ノ所有シ得ベキ私有地限度ハ時價拾萬圓トス
6 私人生産業限度。私人生産業ノ限度ヲ資本壹千萬圓トス
7 幼年勞働ノ禁止。滿十六歳以下ノ幼年勞働ヲ禁止ス
8 國民教育ノ權利。國民教育ノ期間ヲ、滿六歳ヨリ滿十六歳マデノ十ヶ年間トシ、男女ヲ同一ニ教育ス
9 國民人權ノ擁護。日本國民ハ平等自由ノ國民タル人權ヲ保障セラル
10平等分配ノ遺産相續制。
11朝鮮人ノ參政權。約二十年後ヲ期シ朝鮮人ニ日本人ト同一ナル參政權ヲ得セシム
12有婦ノ男子ニシテ蓄妾又ハ其ノ他ノ婦人ト姦シタル者ハ婦ノ訴ニヨリテ婦人ノ姦通罪ヲ課罰ス
13
國民教育ノ期間ヲ、滿六歳ヨリ滿十六歳マデノ十ヶ年間トシ、男女ヲ同一ニ教育ス

丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」は昭和21年発表です。

「超国家主義の論理と心理」では、戦前日本の超国家主義を分析することで、なぜ日本は太平洋戦争であのような惨敗を喫したのか、を明らかにしようとしています。
しかしこの論文の面白いところは、過去の日本についてだけではなく、現在の日本がなぜ経済競争で惨敗を喫しつつあるのかにもつながってくるところです。

まず丸山は、日本人は「近代的人格の前提たる道徳の内面化」ができなかった、と書いています。道徳の内面化というのは簡単に言うと、自分の価値というのは自分の中にある、という考え方です。自分の価値は自分の中にあるという確信が、自分は自分であるという自己同一性を育んでいきます。

では日本人はどのようにして自分というものを維持しているのかというと、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」だという。

「抑圧の移譲による精神的均衡の保持の世界」とは何かというと、上のものにはペコペコして下のものには威張ることによって全体のバランスが維持されている世界ということになります。

徳川封建時代もこのような「抑圧の移譲による精神的均衡の保持の世界」だったのですが、江戸時代は職業によって人が分けられていた時代なので、職業を超えて抑圧が移譲するということは少なかったようです。武士も農民には威張っていたでしょうが、それは武士世界と農民世界との接点にいる人たちの話で、一般の武士と一般の農民が直接、抑圧の移譲を行うということはないです。
これは現代で例えるなら、大企業の協力会社担当社員と協力会社社長間に抑圧の移譲はあるかもしれませんが、大企業の一般社員と協力会社の一般社員とでは抑圧の移譲が行われるような場がないというのと同じです。

江戸時代には並列的にあった抑圧の移譲の場というのが、明治維新以降、国家という枠組みの中で序列化されるようになります。日本国民が一つの場で抑圧の移譲を行うようになります。

この結果、どのような現象が起こるかというと、

「法は抽象的一般者としての治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、権威のヒエラルキーにおける具体的支配の手段に過ぎない。だから尊法というのはもっぱら下のものへの要請である。煩雑な規則の適用は上級者へ行くほどルーズとなり、下級者ほどより厳格になる」

このようなことは誰でも知っている、と丸山眞男は言う。

現代の上級国民問題やNHK受信料問題とつながるところがあります。
ある政治家は、NHKのありかたは問題だけれどもNHK受信料は法律に従って払うのが当然だと言います。しかしこの考え方は、「法は権威のヒエラルキーにおける具体的支配の手段に過ぎない」という認識からの帰結でしょう。

また抑圧の移譲日本における別の現象について、丸山眞男は
「思えば明治以降今日までの対外交渉において対外硬論は必ず民間から出ていることも示唆的である」
と語ります。

現代のネット右翼の嫌韓というのは、彼らが抑圧されつつも、その抑圧を国内では移譲する先も移譲する勇気もないので、韓国に抑圧を移譲しているということになるでしょう。
丸山自身はこのように語ります。
「中国やフィリピンでの日本軍の暴虐な振る舞いについて、営内では二等兵で圧迫を移譲すべき場所を持たない者が、ひとたび優越的地位に立つとき、己にのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない」

明治憲法下で日本人は自分の中に価値を持つという近代的自我形成にトータルとして失敗したと丸山自身は語るのですが、戦後において、日本人は近代的自我形成、すなわち道徳の内面化は出来たのでしょうか。

丸山眞男はこう語ります。

「国体明徴(こくたいめいちょう)は自己批判ではなくして、ほとんど常に他を圧倒するための政治的手段の一つであった。これに対して純粋な内面的な倫理は絶えず無力を宣告され、さらに無力なるがゆえに無価値とされる。倫理がその内容的価値においてではなく、権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは、倫理の究極の座が国家的なものにあるからに他ならない」

国体明徴を憲法9条に言い換えれば、これはそのまま現代左翼リベラル批判として読めるでしょう。丸山眞男は戦後リベラルの最高の知性でした。
戦後リベラル教育は全く失敗して、現在において日本は経済的惨敗を迎えつつあります。

「ジャイロスコープ」は7つの短編から成る短編集です。

【目次】

1 浜田青年ホントスカ
2 ギア
3 二月下旬から三月上旬
4 if
5 一人では無理がある
6 彗星さんたち
7 後ろの声が聞こえる

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【1 浜田青年ホントスカ】

スーパーの無駄に広い駐車場の有効活用として、稲垣という人物が駐車場にプレハブを建てて、「相談屋」をしています。
稲垣に誘われて、放浪青年の浜田は「相談屋」でバイトを始めるのですが、稲垣が浜田青年を誘った理由とは? 浜田青年の正体とは? というオチにつながっていきます。
この短編はオチに期待というより、「相談屋」での稲垣と客との掛け合いが面白さのメインでしょう。

【2 ギア】

近未来荒廃世界を舞台に、謎の生物セミンゴについて語られていきます。セミンゴは、3mもある銀色のほとんど未知の生物で、一匹いると、その巣には必ず9匹がみっしりと詰まっているという奇怪ぶりです。

【3 二月下旬から三月上旬】

主人公とその幼馴染坂本ジョンとの腐れ縁話です。
小説の時系列があいまいになっていて、その結果、主人公にとって、父母や妻子もいるかいないか分からない存在として書かれています。主人公にとって多くの知り合いが曖昧模糊とする中、坂本ジョンだけは存在したという確信が残ります。

【4 if】

主人公のいつも乗る通勤バスでバスジャックが起こりました。主人公は犯人に対して何もできなかったことが残念で......
バタフライエフェクトのようなタイムリープ物かと思わせておいての逆転が見事です。
「ジャイロスコープ」の7つ中で最も出来のよい短編でしょう。

【5 一人では無理がある】

クリスマスの夜に不幸な子供の元へプレゼントを届ける業務を行っている会社がありまして、そこで働く松田さんは、ちょっとおっちょこちょいです。
松田さんのミスでクリスマスの夜に「ドライバー」をプレゼントされた子供が、本当に必要としていた物はやっぱりドライバーだった、みたいなことになります。

【6 彗星さんたち】

東北新幹線内を掃除する人たちの話でした。7分間の掃除時間に出会う一期一会のお客さんたちの人生をファンタジックに想像してみるという話です。

【7 後ろの声が聞こえる】

これまでの6つの短編のまとめ的な話です。
「ジャイロスコープ」はバラバラの短編集なのですが、この「後ろの声が聞こえる」の中で、これまでの短編に出てきた人が登場します。
役者が勢ぞろいしてお客さんにあいさつするカーテンコールのような短編です。


【「ジャイロスコープ」 意味の解説】

「ジャイロスコープ」の解説に、伊坂幸太郎の15年を振り返って、というインタビュー記事があります。その中で「オー!ファーザー」を書き終え、同じようなものを書き続けてもしょうがないと考え、「ゴールデンスランバー」以降は好き勝手やっていこうと決めたとあります。

伊坂幸太郎の初期作品は、伏線を強力に回収することで作品にまとまりをつけるというものでしたが、「オー!ファーザー」以降は、作品にまとまりをつけるという作業が嫌になったのだと思います。

まとまりをつけるのが嫌になるという作家の倦怠期的なものはありえます。

森鴎外も明治天皇崩御以降はまとまりのある小説を書くのが嫌になり、「安倍一族」以降は勧善懲悪を拒否するような時代小説に移行しています。

近代世界はまとまりや整合性が重要視されていて、強い気持ちで頑張って、と応援されるような世界です。こういう世界観が嫌になって、まとまりのない世界にあこがれる、というのは日本近代文学によくあるパターンではあります。
しかし多くの読者が望んでいる小説は、まとまりのある小説世界だと思います。

伊坂幸太郎は「ガソリン生活」では、読者が読んで楽しめる小説を目指した、とありますから、またまとまりのある長編小説を出してくるのではないかと予想します。


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ネタバレあります

【「火星に住むつもりかい?」 あらすじ】

舞台はいつものように仙台です。警察内部に「平和警察」という部署が新設されています。平和警察は、昔の特高や今の公安をもっとたちの悪くしたような部署です。
平和警察は市民を互いに密告させあい、密告を手掛かりに証拠も不十分なまま逮捕し、容疑者を拷問によって自白させます。犯罪者とされた者は、裁判も受けることもなく公開で処刑されることになります。

平和警察を告発するために、3人の男たちが清掃員に化けて、平和警察内部に隠しカメラをつけようとするのですがバレて捕まってしまいます。

捕まった男たちが拷問されようとしているところに、一人の「正義の味方」が現れます。強力な磁石の玉を使って相手の気をそらせている間に木刀でやっつけるという戦い方で、平和警察の職員を10人ほど叩きのめし、捕まった男たちを救出します。

平和警察は「正義の味方」をおびき出すために、公開処刑大会を開催します。

処刑大会当日、平和警察は「正義の味方」が名乗り出ないのならば、その場にいた罪のない人々を何十人か処刑すると宣言します。

名乗り出た「正義の味方」が処刑されそうになった時、平和警察内部の反平和警察派が「正義の味方」を助けることによって、平和警察内のたちの悪い高級官僚を陥れるという結末になります。


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【「火星に住むつもりかい?」 意味の解説】

この作品は伊坂幸太郎の失敗作だと思います。

小さい瑕疵から説明します。

「正義の味方」の武器が磁石というのはどうかな、と思います。敵が身に着けている物の鉄の部分や拳銃などが磁石に引き寄せられて、敵がバランスを崩したり拳銃が無効化したりするのですが、磁石程度のものが、戦闘で簡単に有効活用できるものでしょうか。

「正義の味方」の正体は一般人の床屋です。格闘技経験は、昔、剣道を習っていた程度です。しかしこの床屋が、平和警察内部に単身乗り込んで、10人の警官を叩きのめして3人を救出します。普通に考えたら無理ではないかと思われます。いくら磁石の助けがあると言っても、所詮は磁石ですから。

「火星に住むつもりかい?」は文庫本で500ページあるのですが、これは無駄に長いように思われます。単純にページ稼ぎではないかと思われるところもありますし、さらに、「正義の味方」は平和警察に対抗するための予行演習として、いじめられていた中学生と強姦されそうになっていた女子高生の二人を助けます。

二人も助ける必要はないでしょう。

「正義の味方」が何人助けてもかまわないのですが、小説内では1例をあげれば十分なのではないかと思います。

大きい方の瑕疵を説明します。

「火星に住むつもりかい?」は平和警察支配のデストピアを表現していますが、本文の中で官僚支配の恐ろしさを小林多喜二の拷問死を例にして説明しています。
小林多喜二は拷問死した昭和8年時点では、作家というよりすでに共産党の中核構成員として特高にマークされていました。「火星に住むつもりかい?」で処刑されていく一般市民と小林多喜二とでは、覚悟という点で全く異なります。

「火星に住むつもりかい?」では疑わしいというだけで公開処刑されていく人々を、民衆はただ面白そうに眺めるだけとありますが、現実にはあり得ないでしょう。日本人はそんなにおとなしくはないです。

ネットでは、失敗した人を多くの匿名の人たちが叩くという場面が多くありますが、それは弱い者たちがさらに弱い者たちを叩くという現象であって、弱い者たちの背後には無言で控える強い者たちが存在しています。罪のない人たちが公開処刑をされそうになったのなら間違いなく暴動が起こるでしょう。

太平洋戦争の原因を、反戦という正しいことを正しいと言えなかったからだと考えてしまうと、悪の権化である軍部官僚制が日本を泥沼の戦争に引きずり込んだということになってしまうのですが、実際はそのようなものではないです。
戦争という悪の目的のために、軍部高級官僚が国民を悪の方向に先導したというのではやはり無理があります。
もう一つ。

「火星に住むつもりかい?」で、偽善とは特定の人だけ助けて全員を救わないこと、みたいな定義になっています。
誰かを助けたなら、困っている人すべてを救わないと、最初に救った人に対する善は偽善であるという論理なのでしょう。

「火星に住むつもりかい?」の主人公は、一人を救ったなら他の全ての困っている人を救わなくては、のようなプレッシャーがあるようですが、弱いくせにとてつもないヒーローになろうとする気持ちの持ちように無理があります。

できる範囲で人を助けたのなら、自分の力及ばない所は人に任せるというような考え方で十分に善は実行できるでしょう。自分がすべての善を実行できないからと言って、自分のなした善が偽善であるなんて、

自分の能力を買いかぶるなよ

という話になるでしょう。
そもそも偽善とは、行動と気持ちの差を意味する言葉であって、いいことをしようと思っていいことをするならば、それは直ちに善でしょう。

作家が善について難しく考える必要はなくて、ただそれぞれの人ができる範囲で他人に優しくすればいいだけの話です。

【結論】

伊坂幸太郎は、社会の秩序の崩壊を心配するあまり、無理に正義のヒーローを作らなくてはならないという強迫観念にとらわれてしまっているのではないでしょうか。

そのような無理なことを考えないで、殺し屋が主人公のような読者を喜ばす方向に転換してほしいです。



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